2011-06-02

裸のラリーズ:雑誌記事 出典不明(1987)

「語られぬ闇の中から」(国枝孝弘)

裸のラリーズについて語ること、裸のラリーズの音について語ることーーーそれはそうしようと思えばいくらだって出来る。なぜならば、それはこちらに書き たいことがあるのではなく、ラリーズには語られない何かが尽きることなくあるからだ。その何かを語ろうとすれば、何十枚だって書けよう。
しかし同時にラリーズについて一枚だって書くことは途轍もなく困難だ。それは語ることによって明るみに出てくる部分に比べて、そうすることによって逆に暗 やみに葬り去られてしまう部分が余りにも大きいからだ。語れば語るほどラリーズは言葉の呪縛から逸脱していき、逆に言葉が呪縛されてしてしまい、沈黙せざ るをえなくなる。常にラリーズは闇の中へと溶け込んでいく。ステージで見られるOHPからの模様のように、ラリーズはほんのつかの間、私の目の前に滲み出 てきては、またすぐさま闇へと戻っていくのだ。そんなラリーズについて書くことは、不可能と言ってもいい。ただ、ラリーズのライブから受ける黙示的なもの に突き動かされて言葉を連ねる事しかできない。

私がラリーズを定期的に見に行くようになってから3年ほどになる。少なくともその間に限ってみてみても、ラリーズのライブは結構活発に行われている。場 所は、今はもう無くなってしまった渋谷の屋根裏、目黒の鹿鳴館、原宿のクロコダイルなどのライブハウスや、ここ数年、12月には法政学館ホールであった し、今年11月1日には、早稲田祭で私たちユーテラスの主催によって久しぶりに昼のライブをやった。また東京以外では83年5月に京大西部講堂で4時間に も及ぶライブがあった。
周りの連中がラリーズの現在の活動までをも伝説化し、やたら水谷をカリスマ化しようとしているが、実は裸のラリーズは非常に活発で、常に変化し、今も変 化し続けているバンドなのだ。11月1日の話をして恐縮だが、私たちのような企画サークルでもない単なる音楽好きの集まりが不十分な用意しかできない中、 普通の教室で、教壇のステージで、当日のために借りてきたPA、照明類で、演奏を繰り広げてくれたのも、彼らが実際に動いているバンドだからだ。
裸のラリーズが、その名のもと、日本のアンダーグラウンド・シーンに影響を与えたことは確かだし、それゆえに歴史として扱われてしまうこともわかる。しか しそれ以上に、あるいはそれとは関係なく、裸のラリーズは常に生成しているバンドだ。水谷も変化し、ラリーズ自体も音も変化している。ライブでもその都度 異なった断面を見せてくれる。そのために、余計ラリーズについて語ることは困難になってしまうのだ。

裸のラリーズのライブは会場の中へ入ったときから既に始まっている。場内は暗くされており、香が焚きしめられ、民族音楽などが流れており、ミラーボール がゆっくりと回って細く淡い光を乱反射している。そしてステージのバックにはギーガーやキリコなどのスライドが投影されている。私たちは既にラリーズの空 間に入っているのだ。その幻想的な空間は、私たちを現実から切り離す。幻想の中で時には2時間ほども、水谷の、ラリーズのやってくるのを待つ。彼らは現実 からでも、幻想からでもやって来るのではない。そのような場所ではなく、現実をも幻想をも無化してしまうような名付けようの無い闇からやって来るのだ。そ こにはステージはなく客席もない。私たちも次第にそのような意識を失っていく。そうしてラリーズの演奏が始まるのだ。

裸のラリーズの音について語るのも難しい。最近は3人編成、ギター・ベース・ドラムであるが、サイド・ギターが入ることもある。7年ほど前には、そのサ イド・ギターに山口冨士夫が入っていた時もあった。最近でも今年の9月21日に鹿鳴館でライブのあった時には、久しぶりにサイド・ギターの入ったラリーズ を聴くことができた。また、6月23日のクロコダイルでは、ギター・ベースの2人だけ、という時もあった。音について語るのが難しいのは、先程も言ったラ リーズが常に変化しているバンドであるということや、メンバーの編成の違い、演奏する人の違いで音が異なるということもある。しかし何よりも水谷のヴォー カルやギターがライブごとに、そして曲ごとにさえ、様々な変
化を見せるということだ。ギターの音に関して陳腐にも言葉にしてみれば、時にはノスタルジックで弾き語るように、時には徹底的にノイジーで暴力的な様相を 見せることがある。実際にはエフェクター類の使用で、かなりギターの音とは思えない大音響を響かせているとも言ってしまえる。しかし見ていてこちらの胸を 引き裂き、昂ぶらせるのは、水谷がギターに憑かれたように(あるいはギターが水谷に憑かれたように)弾く時の目の前の姿と、同時に入ってくる音、音、音で ある。水谷のギターを弾く姿は、またもや凡庸な表現をしてしまうが、ただ本当に凄い。凄まじい。弦を掻きむしるように弾き、弦を愛撫するように弾き、ス テージの上で水谷の体が揺らめき、浮遊し、跳梁する。そして時には明滅するストロボのすぐ間近に顔を寄せ静止する。その間絶えずギターの音が渦を巻き、木 霊する。ただ凄まじいとしかもはや言い様がない。凄まじいけれど切ない。それは水谷のヴォイスもだ。
エコーの深みから立ち登ってくる水谷の詞は、激しくて、余りにも切ない。ここで水谷の歌詞を書き移してもいいのだが、言葉を並べただけでは何の意味もな い。ただ平面上に書いた言葉など言葉ではない。その言葉へと結実していく意識の高まり、昂ぶりがあってこそ、言葉は発せられる。水谷がステージで歌うと き、まさしく彼の言葉は、その意味だけでなく、水谷がこれまで裸のラリーズとしてやってきたところの深まりをもって、こちらへとやって来る。やるせない水 谷の声が、こちらの内面をも浸していく。そして胸の内奥に裸のラリーズは、決して消えることのない、名付けようのない、痕跡を刻みつけて、闇へと溶けてい く。

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