2011-06-02

裸のラリーズ:雑誌記事 「Studio Voice」1991年10月号(vol.190)p.78

      Cool is Sweet ー遂にCDを出した裸のラリーズー

裸のラリーズが結成されたのは1967年夏の終わり、京都。その後の詳細はここでは省く。
今回発売となったのは、オリジナル・メンバーによる演奏を含む67年から69年の現存する数少ないテイク集、70年京都での久保田麻琴参加の録音と73年 東京でのオリジナル・メンバーによるライヴ、そして77年立川でのライヴをなんと全て完全収録した2枚組、の3タイトルである。
それぞれの時期のフォトを使用したヴィジュアルを含め、この時点までのラリーズの一種のドキュメントともなっている。 とにかくカッコいい。ここに収めら れた音はめくるめくまでに多様で、同時にそのそれぞれが、まさしくラリーズ以外の何物でもないユニークなものだ。その上全体として、部分の和を遥かに超え るトータリティーを持ったアルバムに仕上がっている。
ラリーズの演奏はいつも、リアルタイムで一回限りの即興演奏だ。繊細で激しいヴォーカルを中心として、幾つかのシンプルでポップなコードと伸縮自在の ビートをベースに、歪みと響きそのものと化したギター・サウンド。ノイズとかノンコード・トーンとかいう、音のちっぽけな区別はここにはない。すべての音 は全体と響き合い、緻密に連関し、フィードバックしている。荒々しさと静けさ、優雅と無関心、死と狂熱、集中と爆発、暴力と愛撫、リラックスしたクールな 覚醒。聴く者を突き動かす極端さ。完成度や音楽性とは無縁の緊張のうちに溢れ出す奇想天外で美しい音の洪水は、どんなレッテルも拒否する。
裸のラリーズは、バンドと言うよりも、水谷という希有なパワーを核として、参加者達の、ひいては聴く者すべてのさまざまな幻想を打ち破って深いところか ら姿を現す何ものかがひとつになって、そこに唯一の「裸の」リアリティーを紡ぎ出してゆく、一個の生命体のような印象を与える。それはまさに、この世界に 口を開けた暗黒の裂け目だ。
我々は本当は何者であるのか、秘められた力を解き放ったとき、我々は何者であり得るのかを追求することを妨げるありとあらゆる禁止(タブー)を、ラリー ズは軽々と乗り超え、誘惑し、挑発する。常に脱皮し続け、とどまることを知らずに死の毒を撒き夜を歌い、隠されたものを暴き出してゆくその姿に我々が体験 するのは、自由?愛?あるいは犯罪の愉しみに限りなく近いものだ。
聞くところによると、ラリーズのドキュメント・フィルムが存在するらしい。また、水谷は現在、音と映像を録(撮)り続けており、既にかなりの量が完成していると言う。
この3タイトルのCDは、全身を傾けて聴こうとする努力を怠らない者には、黄金を約束する。聴きたまえ。何度でも、聴きたまえ。さあ、この無上に甘美 で、恐ろしくきびしい快楽に、共に耽ろうではないか。そして熱望しよう、再びラリーズの演奏が聴ける時を。水谷ある限り裸のラリーズは在り続ける。(文= 冴木 弦)

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