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2011-05-27

フリクション/19??記事:DOLL

FRICTION 複雑骨折した日本を生き抜くために
■ インタビュアー 小林 由明氏、DOLL、掲載号不明(90年頃)
■(インタビューを含めた記事より、レックの発言部分を掲載)

俺個人としてはビデオを撮るからといって別に意識はしなかったけれど、撮影スタッフが、映画の人達は 組っていう からその石井組がさ、人結構いたじゃない。それでみんな気合はいって動いていたよね。そういうのとか、伝わって きてよしという気持ちになったみたいだよ。そういった空気というか、伝わってきてよしという気持ちになったんだ ろうね。ボルテージが高いのはそういうのの相乗効果がいいカタチで生まれたからじゃないかな。
ビデオの絵に関しては、全部任せてしまおうとおもっていたからね、編集のときに顔をだしたのは1回か2回、位だ ったと思うな。俺は音のミックスやってたけど、大変だったな。ビデオのほうはもっと大変だったみたいだね。専門 家じゃないから詳しいことまではわからないけど、音が合わないというのとはちょっと違うんだけど、機械がまちが ってって来ちゃってミックスしてるときに、まるまる1日潰しちゃったとか、ゴタゴタは多かったようだね。

CDを出す予定は全くなかったけれど一応24チャンネルでは録っていたんだよね。で演奏終わってみてあんまりう まくはいってないけれど、聞いてみておもしろかったからじゃあ出しちゃおうって話が出てきた。だからほんとにオ マケ。聞いてみておもしろかったのというのは、そのときそのときの自分の気持ちがわりと素直に出されているのが見えたところだろうね。他のメンバーにして も、ああ、こういうふうな気持ちでやっていたのか、みたいなさ、即興的な音とかが改めてわかったとか、そういうことだね。

タイトルはたまたまつけたんだけど、俺が知り合いの家に遊びに行って偶然目に止まった言葉なんだよね。語呂っぽ いけれどもともとはさ、イギリスの詩人にディラン・トーマスっているじゃない、ボブ・ディランが名前をとったさ 、彼の詩の一節に『dumb numb thenderstorm』というのがあって、それはあとでわかったんだけど、そいつがいろんなところからいろんな言葉を抜書きしてたのからもらったんだ よね。まず1文字ずつしか違わないのが見ておもしろかったのと、意味を調べてこれはぴったりだと思ったからだね。

ライブをまたやるようになったのは、ライブがまたおもしろくなったから、としかいいようがないな。一時期あんま りおもしろくなかったのは事実でさ、俺の中での変化というのは近藤等則さんのIMAバンドでやってるのが大きい よね。あそこではフリクションと違うポジションにいるし、やってる楽器も違うじゃない。それはあるよな。
IMAバンドの中では俺はフロントマンではないのね。そこでプレイするといろいろと見えるわけだよ。楽器のバラ ンスとか音のまじありかたがね、流れの変化、とかがね。それで改めてフロントに立つと今までと違う見方がフリク ションに対しても見えるようになったんだとおもうな。

フリクションはほとんどワンマン・バンドなんだよね、俺の。だけど音楽は生き物だから、あれこれ指示しても出て 来るものはメンバーによって違うでしょ、何が出て来るのかわからないというところがおもしろく思えるようになっ たんだろうね。CDの最後に入れた『New Baby's』で、一回遅くなってまた速くなる箇所があるんだけど、そこなんか全然何も決めてなかったんだよ、だけどとてもうまくいったよね。ベースとド ラムだけが決まっていて、あとはヒゴくんとラピスがあそこでどういうことやってるか、注意して聞くとおもしろいよ。

フリクションを始めたころはさ、キライなものに対して歌っていたよね。10年経つうちにそういうキライなものは 少しづつ少なくなっていったのかもしれないね。いや、もしかすると全然減っていないのかもしれない、だけどそう いうものへの接し方が変ってきただけなのかもしれないな。
以前だと、オレはコレがキライだと、はっきり言わないと気が済まないところがあったな。3人集まるとそういう話 ばっかりだったからね。いいものがあることは大前提で、口に出さなくても良かったわけ。むしろ否定することでテ ンションを作っていたこともある。だけどそれは飽きちゃった。
それで今度は見方を変えてみようと思ってね。ここがいけないじゃなくて、ここはいいというふうに。そうすると今 まで見えてなかったものも見えて来るようになってね、ラピスやヒゴくんのプレイとかさ。俺の中でプレイが段々と おもしろくなってきたんだよね。だからまたライブやりはじめたわけ。純粋にプレイを楽しんでいると思うな、今のフリクションはね。

フリクション/19??記事:ロッキンf

フリクションインタビュー
■インタビュアー 加藤氏、ロッキンf、掲載号不明
■(記事より、発言部分を掲載。名前を断わっていない発言はレックによる)

 俺が見ての変化っていうのは、バンドがたくさん出てきたってこと、つまり、バンド作ってすぐステージ に立つバンドが増えてくるでしょ?そういうことだよ。でも根本的なところでは全然変わってないよね。パンクが上陸したころに俺は日本にいなかったから知ら ないけど、今と同じだと思うよ。2-TONEがはやってね、ツートーンの服着て、
俺は否定しないけど、パッと見たら、俺はウンザリするよ。ウヮーって言っちゃうよね。

(PASSレーベルについて。既存の日本の邦楽レーベルとの違いは)
俺にとっては、別にただレコードを作りたい時に、もし今作りたい時に、すぐに作れる可能性のあることだよね。探し回らないですむしさ。売り込みに回らない ですむ。出会いなんだよね結局。シングル作ろうって、それなら名無しの権兵衛じゃってんで"PASS"って名前をつけただけ。その時点からどれだけ発展し たのかっていえば少しずつ進んでると思うよね。"PASS"って名前、俺達がつけたんだけどね。スタッフは考えるんだけど、つけないんだよね。で、 PASSってどうっていったら決まったんだよ。結局なんでもよかったんだと思うよ。俺は好きだったけどね。結局パスってのは、止まらない、通過してるって のが良かったんだよ。
(ツネマツ)
作り方が違うって感じるのはわかるけど、俺達にとってみれば、あんまり変わらないだよね。ポリシー強くなんだよね。

それはね。作り楽しみたいってとこから始まってるからね、どう発展するのかってことだよね。だからこれから可能性があるよね。マスコミの人って皆そう言う よね。でもそれはただ規模が小さいだけかも知れないよ。バンドと同じだよ。俺達は吉祥寺のマイナーでいいっていう時もあるし、もっと大きな所でって思った ら、新たな人と出会わなきゃならないよね。うまくやるには、自分のことかなりわかってないとね。PASSだったら、グンジョーガクレヨンなんて、他の会社 じゃ絶対やらないバンドをやろうとしたり俺なんか楽しいよね。

(レコード作りの限界について)
金と時間だよ。俺がマシーンいじれれば人に頼まないよ。テレコがあればスタジオで自分達でとってるじゃない。その規模が大きくなっただけだよ。俺達がその操作を学ぶ時間があればね、自分達でやるよ。
(ツネマツ)限界っていったけど、ステージでは3人でやる以外の事はできないじゃない。あとひとり欲しいっていっても、出来ない。そういう意味でなら、ステージの限界はあるよね。で、レコーディングにはそういう意味の限界はないよね。

(音の可能性、聞き手に対する影響について)
音…可能性あるんじゃない。全てのものに可能性はあるよ。人間が出すものじゃない。可能性はメチャ溢れてるよ。ただそれをそいつが受け取るか受け取らない かの問題じゃない。容器の問題だと思うよ。メッセージがスレ違ってるかもしれない。幼稚園の頃は分からなくても、中学生になってワッと分かることがあるの と同じだよ。メッセージは、空気中にあるんだよ。それを、受け取れるか受け取られないかだよ。

(スリルとは)
血液中の成分、アドレナリンに関係してるんじゃない。

(ヒゲ)日常的なズレの感覚だよ。

(表現するとは)
ひとつ意識が入るってことだよ。もう日常的に、顔つきひとつ、姿勢、体つきは表現になってるけど、それだけじゃないんで、ひとつ、見せてるとかいう意識が 入るってことだよね。だからバンドなんて、その姿を見ればわかるんだよ。ジャケットの写真みればわかるよ。頭が勝っちゃいけないんだよ、生理的な物と言葉 のバランスはとれると思うんだ。やろうとすることに入り過ぎたらダメだと思うよ、ソウルは伝わらないよ。他のものが見えなくなっちゃう。やろうとすること は分かるけどね。でも勿論、やろうとすることが何もないよりは数段ましだよ。でもし過ぎじゃいけないんだと思うよ。結局何も見えないものの反対側にくるだ けで、同じことになっちゃうね。反対側にいるバカっていい合う感じになるよ。

皆、使う部分ってのが、ハートを使ってるのか、頭しか使ってないような気がするね。結局、心臓が動いてる、血が流れてるってのが大切なんでしょ。血液がど う循環してるかなんて知らなくても、血は流れてるんだよ。病気にならずに血が流れてればOKなんでしょ?それを忘れてさ、どうやったら血が何とかなるのか なんて考えてる。ポイントは心臓が動いていればいいんだよ。ソウル・ミュージックでなきゃ。

(今後の音は)
分からないよね。先ってのは、展望ってのは言葉にならないんだよ。形容を捜せば、自分がその音で動ける、ダンスできるような音だね。

(自分の生活と音の関係)
大いに関係してるよ。全部関係してるよ。今、ここでこうしてることだって関係
ないものなんて、なにひとつない。

フリクション/19??記事

ストリート・ロック・シーンの奔流 東京ロッカーズ
■地引 雄一氏、掲載誌、時期不明
■(東京ロッカーズおよび以降の音楽シーンに関する記事よりフリクションの部分を掲載)

 フリクションの出現は衝撃だった。メンバーがステージに現われただけでその場の空気が変わった。しかしその彼等の凄さ、カッコ良さというものがどこからくるものか、言葉にするのはむずかしい。それだけフリクションの存在がこれまでの概念から離れたものだったといえる。
フリクションの背景には彼等のニューヨークでの体験が大きな位置を占めている。よく知られている様に、「3分の3」というバンドにいたレックとチコヒゲ は77年に相次いでニューヨークへ渡り、そこで後に『NO NEW YORK』というレコードで脚光を浴びることとなる当時は無名のジェイムス・チャンスやリディア・ランチと共にバンド活動を始め、CBGBなどのライブ・ スポットにも出演した。ニューヨークでのストレートな人間のぶつかり合い、ロックに対するフリーなアプローチとそれを成り立たせる状況などを生で体験し、 強い感化をうけるとともにそこから逆に日本人である自分達、そして自分達の街である東京を強く意識しだしたという。東京でこそ活動すべきだという信念を もって帰国後、さっそくギタリストを加えてフリクションを結成、直ちに東京ロッカーズのムーブメントへと突入し全速力で回転しだしたわけだ。それはリザー ドが東京に棲み続けることによってパワーを蓄積していったのと対極をなすかもしれない。このことがフリクションをこれまでの日本のロックの脈絡から離れた 突出した存在にしていると考えられる。

フリクションの表出しているものが少しずつ明確になっていったのはギターがツネマツマサトシに替った前後あたりからだった。まず彼等はそのサウンドにお いて、また、さらにはその外見においてさえも、一切の情緒的な部分を排除している。一見、それは人間的感情を拒絶した無機的なもののようにも感じられる。 事実そういったとらえ方の評論も多かった。しかし表層の情緒や、あいまいな感情をぬぐい捨てることによって、もっと底にある人間の持つ本質的なエネルギー を解放したのがフリクションなのではないだろうか。

かつてレックは「東京はエネルギーをたくさん吸収しているけど、それを少しも外へ向けて出していないんだよ」と語ったことがある。街にエネルギーが眠っ ている様に、人間の内側にも計り知れないエネルギーが存在するはずだ。しかしそれは様々な条件によってストレートに噴出することを妨げられている。ニュー ヨークでのヴィヴィッドな体験は、余計東京の閉塞的状況を痛感させることになったのかもしれない。何が自然なエネルギーのストレートな表出を妨げているの だろうか。その見えない「何か」との闘いがフリクションの軌跡だったといっても言い過ぎでない。最大限に自己のエネルギーを解放し、メンバー相互にそれを ぶつけ合い、観客に投げつける。もっとナマな生命感を発せられる状況、もっと自立した真の楽しさを作り出せる状況を目ざして、あいまいな見えない壁を突き 崩すために、彼等は演奏はもとより、その服装やポスターのデザイン、ミニコミの発行、またライブの方法やレコードの出し方などあらゆる面にその純化した表 現を貫いてきた。

フリクションが少なからぬインパクトを日本のロック界に、あるいはロックを越えた分野に与えてきたことは確かだし、わずかずつでも状況を変化させてきて いる。しかしバンドの活動領域自体は拡大しても本質的な部分は何ひとつ変っていないのではないかという疑問が常に彼等を捉えている。素直な感性すら知らぬ まに押し潰してしまう様な見えない構造が絶えず世の中を覆っているのではないだろうか。そんな疲労感がチコヒゲを一時的に活動から遠ざけている理由でもあ る。しかしその様な状況の中でも、いやそうであるからこそ、なおフリクションは前進を続ける。

最近レックは「日本人」、「日本民族」ということに強い関心を持っている。結局日本のこの曖昧模糊とした生きずらさは日本人の民族性からくるのではない だろうか。そうだとするとフリクションのやろうとしていることは、長い歴史の中で培われてきた日本的風土そのものとの対決なのかもしれない。例えば明治・ 大正期に西洋的自我の萌芽と日本の伝統的社会との相克が大きな文化的テーマとなった時代があった。今のフリクションがぶつかっている問題はその現代的展開 といえなくもない。だがそれは何も「日本人」に限ったことではないだろう。どんな時代、どんな社会でもその社会を組みたててゆく巨大な力は働き、大部分の 人間はその全体的な流れに従うことによって生きることを保証され、それによって意識までも作られる。その力がより抑圧的かどうかという、程度の差があるだ けだ。フリクションの発する内的エネルギーは、外からの力に従うのではなく肉体と精神の内側から湧き出る力によって自我を成り立たせようとするものだ。フ リクションに最も凝縮したかたちで表わされるこの意識は、東京ロッカーズ以降のバンドが多かれ少なかれ持っているものだ。これがあるいは東京ロッカーズの ムーブメントを形成したバンド群の一番根本的な共通項かもしれない。これは人間の生きる姿勢そのものに対する問いかけだ。フリクションがあれだけ強烈なイ ンパクトを放ち、多くの人をひきつけるのも、そのストイックなまでに純化した激しさがあるからに他ならない。

周囲の状況が困難である程、よりソリッドで、より強靭なビートが必要とされる。フリクションのセカンド・アルバム『スキン・ディープ』は彼等の行きついた深い到達点を示すものだ。その強固な意志を感じさせるビートは僕達に覚醒を促がす。

フリクション/1998記事:NU SENSATIONS (MUSIC MAGAZINE 増刊 1998年)

RECK Interview:当時は客の数なんて全然関係なかった。とにかく自分のものをだしたかった
■ インタビュアー 小野島大氏、 NU SENSATIONS 日本のオルタナティヴ・ロック1978-1998  MUSIC MAGAZINE 増刊 1998年11月10日発行
■(インタビュー記事よりレックの発言を掲載)

(学生運動の世代?)
ちょっと下だけどね。俺がちょうどお茶の水のデザイン学校に通ってたとき、東大の安田講堂篭城があったんだよ。あのころはお茶の水駅周辺はいつも機動隊で 一杯だった。でも俺は全然関心なかった。ノンポリだったからね。ロックンロール好きはあっちの方にはいかないんじゃないかな。だって、楽しくなさそうじゃ ん。

(最初にバンドをやったのは?)
高校のときにはやってたよ、ビートルズ・バンド。考えてみりゃポップ・ミュージックが好きだったんだな、小学生のころから。そういうメロディのあるものを 作りたい気持ちもあるんだけど、できないからさ。俺らぐらいの年代はビートルズってあるからさ。フッと素直になると、そういうのが出てくるんじゃない? マッチャンは正直だから出しちゃうんじゃないかな。でも俺はそれを出す気にはなんないもんな。少なくとも人前ではやらない。

(3/3の結成時期は?)
19歳の終わりになって家出して、デザイン学校で知り合ったヒッピーの人―その人にすごく影響受けたんだけどーのとこに転がりこんだわけ。そのころに 『ミュージック・ライフ』のメンバー募集欄で、ヒゲが募集してたんだよ、ギタリストを。デザイン学校はもうすぐ卒業だし、どうしようかと思ってる時期で、 とりあえず会ったら意気投合して。

(聞いていた音楽は?)
ジミヘンと、あとストゥージズ、MC5も聞いてたかなぁ…それっぽいの弾いてたよ。で、オリジナルも作ってたから、まぜて演ってた。『軋轢』に入ってる <サイクル・ダンス>は、<きかいのうた>ってタイトルでそのころ演ってたね。あと<ピストル>もそのころの曲。
村八分は完璧にカッコ良かった。凄かったよ。すげぇ!と思って、唖然と見てた。できかたがちがうっていうか、冨士夫ちゃんやチャー坊がそれまで経験してきたものが、自分と全然ちがうっていうか。

(ハードな生き方ですか?)
うん。それに、同じぐらいの年代であっても、俺なんかよりディープに音楽に入ってた気がするな。音そのものにね。それまでの日本のバンドとは全然ちがう匂いがあった。

(75年に自主制作したLPについて)
いや、あれ、たしか10枚しかプレスしてない。それぐらいの単位でプレスしてくれたんだよ、当時は。プロモーション用。(状況を打破したいという気持ちか らか?)そういうとカッコ良すぎだね。全然そういう感じじゃなくて、ちょっとは世間に知ってもらいたいってのもあるわけだから、そのためには雑誌に載せて もらうのが手っ取り早いかな、と。いや、自分たちだけでコンサートやったことはほとんどなかったの。イベントばかり。やったとしてもせいぜい客は2~3人 から20人ぐらいだよ。ただ演れるだけで楽しかったから、声がかかればどこへでも行ってたし。

(音楽やろうと決心したのは?)
いや、そういう決心っていうのはないんだよ、実は。いまでもそうなんだけどさ、決心したらもっとちゃんとやってるよな。
いや、全然めげないよ。毎日ライブしてたわけじゃないし、そんなに、よし、変えよう、なんて気持ちもないから、がっかりもしないんだよ。

(多くの人に聞いてもらいたいという気持ちは?)
うーん、それも、なかったって言ったらウソになる、ぐらいのもんじゃない?バンド内部ではいろいろ意見もだすけど、それ以上のことはそんなに熱心にやって ないよ。そこまで楽しみになんないっていうか。あとメンドくさがりっていうのもあるし。このバンドを人に知らしめるためにこうしようとか、あんまり…まぁ 少しは思ったけど。10枚作ったのは、まぁそういうことなんじゃない?

(ニューヨークパンクについて)
うん、全然ピンときたよ。だってそのころ、むこうのもんとかも面白いのがない時代だったでしょ。だからすごく刺激的だったよ。セックス・ピストルズが出てきたとき、まずバンド名に驚いたよな。で音を聴きたくなるわけだ。
ピストルズはわりと普通な音だなと思ったんだよ。でもNYの音を聴いたときはアレッと思ったよな。うまくないじゃない?ハード・ロックじゃなかったし。だ けどどっかにきたよね、その面白さが。ハード・ロックみたいに太い音で ゴーッといく部分と、それだけじゃつまんないっていうのがいつもあってさ。そういう部分をNYの音が刺激したわけ
だ。どっか神経を刺激するような、テレヴィジョンのトム・ヴァーラインのギターが好きになっちゃった。

(それがNYに行った理由?)
うーん。ひとりだったらどうなってたか、わかんないなぁ。割と曖昧な男だから。ガールフレンドが一緒にNY行くってお金貯めだしたからね。まぁここにいるよりそっちの方が面白そうだな、ぐらいのもんだよ。

(S-KENの田中唯士さんにNYにあったんですね)
当時『ロッキンf』って雑誌の編集長が、珍しく3/3の記事を載せてくれてたんだよ。その人が、NYに俺の友達がいるって紹介してくれたわけ。で尋ねていったら連絡してなくて、"あんた誰?"って言われて。

(東京に帰った理由は?)
ティーンエイジが英ツアーやることになってさ。でも俺は3ヵ月の観光ヴィザだから、一度出たら戻ってこれない。だからバンドも抜けたんだけど、NYに腰を 落ち着けるつもりもなかったし。じゃあ帰って自分のバンドをやろうと。リディアとか、今までの音楽ってラインから全然外れてたわけでしょ。すごく楽しかっ たけど、やっぱり俺のバンドじゃないし、俺がロックンロールできるわけじゃないからさ。そういう、自分のバンドをやりたいなって気持ちがむくむくと湧いて きたからね。

(NYと日本のミュージシャンの違いは?)
といっても俺らが知り合ったリディアとかマーズなんかはミュージシャンって感じが全然なかったからね。実際マーズは絵とか描いてたしさ。全員が描いてたわ けじゃないけど。彼らは表現の手段として、いまは音でやってる方が面白いってことでやってるわけだよ。マーズなんか最初はただのヘタクソとしか思えなかっ たからね。でも聴いてるうちにアレッと思うんだよ。いま目の前でやってる音楽は何なんだろうって。そうすると、俺はそれまで、ただ外国の物真似をやってた だけじゃなかろうかって思うわけだ。NYではヘタでもなんでも、ユニークなら客は見にくるんだ。オリジナルっていうのが一番大切で。いかにほかとちがう か、ってことで競ってたから。新しいもの好きも多いし。イエスとノーがはっきりしてるし。日本だと、相手に合わせることが身についていて、人は人、自分は 自分っていう主張がそれほどないでしょう。その自信のあり方っていうか、そういうものは身に付いたね。音楽ってそういうのが出てくるじゃない?だから音を 出し合うとすごくわかるよ。気を使ってしまうっていうか。しょうがないんだけどね、そういう風に育っているから。ミュージシャン同士でぶつからない音って あるから。むこうでは、とにかく遠慮なしっていうか、前へ前へと強い音を出す人は一杯いるわけで。俺は俺っていうのは誰でもあると思うんだけど、それを はっきり出せるかどうか。それを一回バンドでやってみようって思ったんだよ。サウンドっていうより、出し方、見せ方っていうかさ。まぁフリクションも 3/3とそんなに変ってないけど…俺がベースを弾くようになっちゃったから、そこはちがうんだけど、基本的には速いロックンロールっていう。スピードはよ り速くなったけどね。タラタラしたとこは見せない。尖ってるとこだけ見せる。余計な部分はなくして、とにかく出ていって、バンッ!てぶつけて引っ込む、み たいな。

(3/3よりさらに無駄を削ぎ落としたのですね)
そうだね。NYでそれを学んだのかもしれない。だからそのときは音楽がどうのってレベルじゃないよね。自分を見せるときにどういう見せ方をするか。自分のなかの曖昧な部分はずいぶんなくなった気がする。自分にとって何が必要なのかっていう。

(NYでイエス、ノーを問われる場面が多かったんですね)
そう。それは言葉ばかりじゃなくて空気としてさ。まわりがずっと白人ばかりで、ある日鏡を見るとひとりだけ黄色人種がいるわけだ。やっぱりちがうんだなっ ていう。それまでは白人になりたかったのかもしれないね。白人のバンド聞いて育ってきたわけだから。でもそこで自分がなんであるか気づかされて、そういう 部分がなくなって。だからNYに行く前とあとじゃ、同じロックンロールやってても全然ちがうんだよ。東京に帰ってカッコいいバンドを作って、人を驚かせた かった。だからすごく楽しみだったし、自信もあったよ。自分がやりたいことがすごく明確にあったからね。早く作って早く演奏したくてしょうがなかった。

(ラピスの加入の理由)
そんなに知ってるギターがいなかったのね。ラピスとワクぐらいしか知らなかった。ラピスは一緒にやったことはなかったけど、見た目で客にインパクト与えられるんじゃないかと思ったことは覚えてる。

(ギタリストの腕とかは?)
ああ、全然考えてなかったな。いまはサウンド優先だけどね。そのころは、弾ければよかった。いやもう、それでいいと思ってるからさ。とにかく俺、あんなに 自信があったことってないからね、いまだかつて。誰と一緒にやろうが引っ張っていけちゃうぞって自信があったからね。怖いもの何もなかったからね。そうい う状態が何年か続いたからさ。だからあのとき見た人はインパクトあったんじゃないかな。

(田中さんとはNYでよく会っていたのですか?)
NYはすごいなぁ、東京はつまんないなぁ、みたいな話はよくしてたね。なんか面白いことやりたいね、みたいな仕掛け人ぽい感じはあったな。で、日本に帰っ たら田中さんはもうバンドを作ってて、もうすぐS-KENスタジオも作るんだ、ってことになってた。NYっていろんなものがあるわけだ。映画も詩も音楽も 絵も。田中さんはS-KENスタジオをそういう、音楽だけじゃない、何をやっても、何を表現してもいい場所にしたかったみたいね。

(最初のライブの動員数は?)
全然覚えてない。大したことなかったと思うよ。だいたい客の数なんて当時は全然関係なかった。一人でも二人でも、とにかく自分のなかにあるものを出したいって状態だったから。

("東京ロッカーズ"の命名者は?)
それは田中さんだよ。始めはコンサートのタイトルだったんだけど。そういう意味で田中さんがいなければ、東京ロッカーズっていうのは出てこなかったと思う よ。彼が言ってみれば仕掛け人だったからね。彼は東京にこだわってたし、東京のストリートでロックやってる連中を集めて、そこから何か面白いことが起きれ ばいいと考えたんだな。ほかの連中はそんなことあんまり考えてないからさ。東京ロッカーズって最初はちょっとダサいかなと思った記憶がある。でもそれでマ スコミにずいぶん載ったんだよ。『GORO』とか『平凡パンチ』とか、音楽雑誌じゃないとこがね、一種の動きとして。それで客が集まったというのはある。 ひとバンドでやるより一緒にやった方が客がくるっていうのは多少あったけど、でもそんなに意識的には考えなかったな。

(ラピス脱退とツネマツ加入の経緯は)
くっくっくっ、ラピスはね…俺はそのころはさ、あれやっちゃダメとか、言葉でどうこうは言わなかったんだけど…まぁ俺から見ると遊び人みたいなところあっ たから。こいつ腰が軽いな、じゃクビ、みたいな。いつもそうなんだけど、次の人のこと考えてないんだよ。で、ギタリストどうしようかってことになって。 マッチャンはね、S-KENスタジオに客として来てたの。そのころはマッチャンも突っ張ってたからさ、いいんじゃないかと思って、でヒゲが声かけた。
うん、だってなんも細かくは考えてないもん、当時は。見かけに勢いみたいなもんがあればさ、ちゃんと弾けるかどうかなんてはほとんど考えてない。(一緒に やってみてすごいと思った?)いや全然思わなかった。俺そういう見方は 全然してなかったからね。ヒゲのドラムだってさ、あとでビデオ見て、このときすごいいいなとか思ったぐらいだから。いいプレイしてるとか、そういう表現の 仕方はそのときなかったよねぇ。いまはそういうことがすごい問題なんだけどさ。そのころはパシッ!って音出して、そんとき気分が良ければそれでよしって 思ってたから。じめっとしてなくて、パンッとできる人間がいれば。だからラピスにもマッチャンにも言ってたのは、とにかく真正面を向いて、音を客にぶつけ ることだけ考えようと。うん。それが自分のなかで一番はっきりしようとしてたとこかもしれないな。ちゃんと向き合おう、対面しようみたいな。

(ツネマツ加入で音が引き締まったようだけれど?)
うん、それは持ち味だろうね。マッチャンはぐっと一途だからさ。そいで音が硬質になって。だけどマッチャンはブルースが好きだったから、弾いてるとブルースの要素が一杯はいってくるわけよ。だからすごく制約つけたわけ。弾かないでくれって注文を一杯つけて。

(チョーキングするなとか?)
そう。このコードのときはここ押さえなくていいとか、この一弦だけでいいとか。こないだマッチャンが言ってたんだけど、そういう制約つけられて反発もあっ たけど、いま考えると新鮮でもあったって。それまでは、こう弾いてくれってばっかり言われてたけど、俺が突然きて、それはするなって。じゃあ納得させたろ うじゃねぇかって気分になったらしいね。

(観客の反応は気になったか?)
最初はどうでも良かった。ただぶつけた手応えがあればいいと思ってたから。あのころ北海道のちいさな港町のライヴ・ハウスに行ったりしたときに、サウン ド・チェック終わって空き時間に海岸とか行ってると、やけになごんちゃってさ。こんな平和なところでフリクションは何をしたらいいのかと思っちゃうわけだ よ。で、戻ってみると客がいなくて、店の人が恐縮して、電話して知り合いの人を呼んでくれるわけ。でもそんな人たち相手に"お前ら!"みたいな感じででき ないじゃない?だからそのときは歌は減らしてセッションぽくやったことがあったな。
最初はパンッ!ってやって帰って、そのあとは知ったこっちゃないわけだ。でも終わったあとライヴ・ハウスの外で一服してるとき若い男の子がすごい嬉しそう な顔して出てくるのを見たりすると、こっちも嬉しくなってくる。ずいぶん遠いところから来る子もいるわけで、最初のころは、"見たいなら来れば"って感じ だったのが、"来てくれたんだ"って気持ちになったりするよね。だから、ある時期からサンキューって気持ちにはなってきた。
けっこうあとになってからだな。IMAバンドに入ってからかもしれないな。ある意味では、そういうとこでは俺も傲慢だったとは思うけどね。だってライヴ終 わったあと"サインしてください"とか来るじゃない?そうすると俺は"どうしてサインが必要なの?"とか聞き返すわけだ。可哀相だろ?いま考えると。そう いうの一杯あんだよ、俺。結構俺ひどい奴だったんだよ。でもそのときはすごくこだわってたからさ。自分と自分の外の世界が、なんとなく一緒になっちゃうの がイヤだったわけだ。

(馴れ合いたくないし、自分が特権的な立場にいるとも思いたくなかったのですね)
うん、それは絶対思いたくないな。そんなとこ行っちゃったら最悪だと思ってるからさ。

(バンドと客、メンバー同士の馴れ合いは音に出るかもですね)
そう。メンバー同士が馴れ合ってくると、音の場がちーさくなるんだよ。喧嘩しないんだな。そこで収まっちゃって、音の持ってる力がわかってないと、つまん なくなっちゃうよな。日本人特有の、ぶつかってないのにわかりあっちゃってる、みたいなね。ロックだとサウンドにエッジが効いてないと面白くないんだけ ど、そうやってるとエッジが出てこない。

(それだとメンバーは長続きしないのでは?)
まぁ、俺の場合飽きっぽいっていうのがあるかもしれないけど。

(有名になりたい、売れたいとという欲はなかったのか?)
そうなんだよねぇ。それが自分でも不思議なんだけどさ。たぶんね、ニューヨーク行ったのが27歳だったでしょ。そういう夢の見方がもうできない歳だったっ ていうか。なんか醒めちゃってた。あと、例のヒッピーの先輩に会って、もっと精神的なトリップの方に行ってたからね。まわりの人はインド行ってたりヨガ やったりしてたわけで、有名になるとか売れるとか、そういうことに引っ張られる質じゃなかったんだな。

(傍から見ると、どうしてギター辞めさせるのか、ライブ休むのかと思いました)
ああ、そうか。外から見るとね。だけどわかんないけどさ、精神分析的に見るとなんかトラウマがあって、ものごとうまくいきそうになると自らそれを壊す、っていう症状もあるらしいよ。

フリクション/1997記事:ROCK is LOFT ~HISTORY OF LOFT~ 1997年7月20日発行

Reck FRICTION
■ ROCK is LOFT ~HISTORY OF LOFT~ 1997年7月20日発行(レックの寄稿文を掲載)

LOFTは20年以上前からあった様な気がするんですが…。とにもかくにも20年生き抜いて来て、お目 出とうございます。オレは(記憶では)'76~'77年頃、新宿LOFTにBANDのTAPEを持って行って聴いてもらって、ダメと言われて出してもらえ なかったという…。「オレたちはまだヘタなのかなぁ?」と自分で考えた思い出がありますね(これはFRICTIONをつくる前)。しかし、そのすぐ後に" リゾート"というBAND(このバンドは2、3回LIVEを演ってなくなってしまいましたが、山口冨士夫chanとルイズ・ルイス加部くん2人がギターで プラスBASSとDRUMというBANDで)を仕掛けた人が知り合いだったので、この"リゾート"が新宿LOFTに出演する時に一緒に出させてもらったの がLOFT初出演だったと思います。こん時は、自分のBANDは"3/3"という名前で、オリジナル曲の他にこの時のステージではBEATLESの「バー ステイ」なんかを演って失敗したのを覚えてますね。で、その後、しょっ中LOFTで演る様になったのはやっぱり"FRICTION"つくってからで、 '78~'79年ぐらいがたくさん新宿LOFTで演りましたね。下北沢LOFTでも数回演ったと思います。下北沢LOFTのある日のLIVEでは、一緒に 演っていたギタリストの松chan(ツネマツマサトシ)が、どういう訳か最前列にいた客(男)のアタマを蹴飛ばしちゃって(それもとんがった皮靴で)、そ のお客さんが"イテェーッ"という顔をしながらも、ちょっと嬉しそうだったのをワタシは今でもハッキリと覚えてます(演奏中でもそういうのは見てるもんで す)。そのお客さんは、何も別にヤジをとばしてた訳でもないので、実のところ松chanがいきなりそいつのアタマを"ゴンッ"と蹴飛ばした時には、オレも ビックリしたんですけどネ。きっと松chanにしか分からない理由があったんでしょうね。

新宿LOFTは何回も演ったので…。SONYから出た『東京ロッカーズ』も新宿LOFTで録ったし(この日は昼の部と夜の部の2回演りましたね)。新宿 LOFTの方の思い出としてはですね、けっこう色々あるんですが、FRICTIONが演奏中にドラムの"ヒゲ"のモニタースピーカーが彼の左手のすぐ脇に あったのですが、ちゃんと固定してなかったのか何なのか、振動で乗せてあった台から落ちて来てヒゲの腰を直撃し、さすがのヒゲもウーッと唸って、叩くの STOPして立ち上がってしまいましたね。あん時のヒゲの痛そうな苦しそうな顔も良く覚えてますね(あんな顔を見たのは27年間付き合ってきて、あの時た だ1度だけなので)。確かそれでオレが、マイクで「タンマだタンマ、事故だ事故!」とか言って演奏を一時STOPして、ヒゲの様子を見て。だけど数分後に はすぐ演奏を始めたと思います。(まぁ、良くある事か?)だけど、本当イタそうだった…。だけどオレもその頃は今ほど慈悲深くなかったので、あまり本気で 心配しなかったかもしれん。あと、LOFTは(いわゆる)"楽屋"がなかったのでステージの脇の方から1Fに通じる階段のところが楽屋代わりで。あとその 階段を昇りきったフロアーのところにみんないっつもたむろしてましたね。(この"みんなたむろする"の図が8mmで撮影されていてVIDEOにコピーされ ていたのをこの間、久し振りに見ましたがヤクザの集まりみたいでしたね)そのフロアーはビルに入っている普通の会社の人達もたくさん通るフロアーで、一つ しかないエレベーターの前にそんな連中がたむろしていたので、今思うとさぞ通り辛かったろうと思います。ウ~ン、あとそのフロアーでみんながたむろしてい る時"FOOLS"の良chanが誰かに殴りかかりそうになった時(もう一発は殴っていたかもしれない)、客のアタマを蹴飛ばしたあの"松chan"が、 ものすごーく穏やかに子供をさとす様に「ね、やめな…」と一言、良ちゃんの肩をたたきながら言ったのを覚えてますね…。こん時もちょっとビックリしました ね。(オレはそういうの勝手にやらせとけ、と思ってしまう方なので)松chanがそんなに静かに、気の荒立っている人間に語りかける事の出来る人だとは 思っていなかったので…。おっ松chan、大人だなぁーとか妙に感心してしまいましたね。

それと似た話で、ある日のGIGでLOFTのトイレは確かステージに向って右のわりとステージに近いところにあったと思うんですが、そのトイレは出演者も 客も男も女別でもなくただ一つのトイレだったと記憶してるんですが、バンドとバンドの演奏の合間に、まぁ大抵のバンドマンも客もそのトイレに来るわけで。 ある日、けっこう客が入っていてごったがえしている時に、トイレに誰か入っているにもかかわらず、トイレのドアをぶっ叩いたり、蹴飛ばして「とっとと出 ろ~!」と怒鳴っているランボー者がいまして、(それは演奏者ではなくて客でしたが)おっまた変にカンチガイしているバカがいるぞ、とか思っていたら、そ こでスーッと"リザード"のモモヨが静かな口調で「人が入っているんだから、ちょっとぐらい待てよ」と一言そいつに向って言ったわけですよ。オレはこの時 もちょっとオドロキましたね。「おっ、モモヨもちゃんとオトナだなー」と感動しましたね。(こう思い出して見ると、オレという人間はけっこうその頃は冷た いヤツだったのが分かってきましたね)で、その言われたヤツの一言を良く憶えてるんですが、そいつはモモヨに向って(もちろんそいつは相手がリザードのモ モヨだという事を知っている)「おーあんたまともなんじゃねぇーか。全然パンクじゃねぇーじゃねぇか」(!?)と、訳のわからん事を言い出しまして、言わ れたモモヨもそれを聞いていたオレも????で、何じゃそれは!でモモヨもあまり(?)な言葉に返す言葉が一瞬出てこなかった、という事件も憶えてます ねー。その時はその後どうなったかは良く覚えてないんですが、殴り合いにはならなかったですね~。そのトイレの男は結局ランボーに振る舞うことがパンクだ と思っていた訳で(あまりと言えばあんまりで、カワイイと言えばカワイイですが。何かそういう時代だったんですねー。20年前ですねー)。そのトイレ男が そのまま大人になっていない事を祈るばかりですね。

イベント的なものでは'79年の終わり頃にやった"ドライブTO 80'S"という、数日間のGIGは楽しかったです。毎日4バンドづつぐらい出て、LOFTの外でもパフォーマンスが毎日行われて、LIVEが終わって も、みんなパッとすぐには帰らずに店の前にたむろしてて、けっこうみんな本当に楽しそうで(まぁ、考えたら20年前は今みたいに娯楽ないもんね。 VIDEOだってないもんね)演る方も演るのが楽しくて仕方がなくて、観に来る方もBANDを観に来るというのと、その"場"に参加するというのが大きな 喜びになっていた時だったと思いますね(それはいつでもそうなのか知れませんが)。当時はそういう場所に来る人々は、今から比べたらほんの一握りの数の人 達だったんですね。その分密度が濃かったのかもしれません。

あっという間の20年だった気もしますが、人間もお店も生き抜いていくのは結構大変ですからね。良くがんばってますよ。お互いに生き抜きましょう。FRICTIONも来年で20年経っちまいますね。いつか又、LOFTに出させて下さい、と思っています。
音楽はものすご~く良いものなので、良い音楽はジャンルを問わずたくさん紹介していって下さい(と願います)。店を維持するのも大変な事なのでしょうが、どうか『心意気』を忘れずに、行って下さい。

フリクション/1997記事:off note / cut out records 19970629

NO NEW YORK SELF HELP HAND BOOK HANDBOOK
■1997年6月29日発行 off note / cut out records
■(NO NEW YORKの再発盤に収録されたインタビューからレック自身の活動に関する部分を掲載)

 77年3月にNYに着いて、CBGBとかマクシス・カンザスシティとかのライブ・ハウスね、すぐ行き 出したわけだ、ま、それが目的だったしね、あ、でも、その前にNYに行っていた友達からチケット貰ったんだ、行く前の日に、イギー・ポップの。着いた翌日 にイギー・ポップのコンサート、『イディオット』出た時の、それ見て、それ凄かったな。まだNY怖かったしな、成田空港まだ出来てなかったし。NYの情 報って今みたいにないから、『タクシー・ドライヴァー』とかああいう映画しか。えらい怖いところだと、だから、着いた時からえらい怖かったよ。NY着いた 1、2ヶ月っていうのは、頭の中いろんなものが分泌されていたような気がするな。CBGBだってちょっとガラの悪いところにあったから、ほとんど毎晩行っ ていたんだけど、行く度に怖かったもんな。酔っ払いだらけなのね、路上に。で、声かけられたんだけどね、ジェームスがね、リディアと一緒だったんだけど ね、声かけたのは、ジェームス。「サングラス、かっこいいね」って言われたのは覚えてるよ。オレはずっとサングラスしながら、だったし、ま、単純に日本人 がいなかった、というのと、黄色いヤツがサングラスして、髪の毛立ててるから、そりゃ白人の中でも目につくよね。で、オレ、NY行ってびっくりしたのは、 もっとかっこいいヤツがいっぱいいるかと、毛立ててるヤツがいっぱいいるんじゃないかと思ったら、いないんだよ、ほとんど。ヒッピーみたいなのがまだ沢山 いたのはびっくりしたな。髪の毛切って、黒い服着てるやつの方が少なかったからね、うん。だから珍しがられたもんね。

NYって不思議なとこで、行く前は、パティ・スミスとかトム・ヴァーラインとかすごいスターだと思ってるじゃない。でも街歩いてるといるわけだから、う ん。NYって村みたいだよな、下のほうは、ヴィレッジって名前があるくらいだから。えらい狭いとこだよね、あそこ。それで、みんなCGBGとか毎日行って りゃ知り合いになっちゃうでしょ。例えばCGBGが高円寺にあるとすると、マクシス・カンザス・シティは阿佐ヶ谷くらいのとこにあるわけだから、その2軒 くらいしかないわけだから。当時はそこにそういうヤツらが集まっちゃってるわけじゃない、うん。

だから音楽をやりにいったわけじゃないんだ。とにかく何も考えてないよ。とにかくNYに行って、NYを見てみたいっていうこと。だけどオレ、バンドやっ てたから、何かあるかもしれないって、ギター持ってったわけだ。だからこれって目的が、何かをしようって目的で行ったわけじゃない。だから観光ビザでしか 入れなかったよ、3ヶ月の。で、声かけられたのは、すぐじゃないのね、2ヶ月くらい経っていたかもしれないな、だから、帰ろうと思ってた頃だよな、でも声 かけられちゃったから、そのまま居着いてしまったと。それがティーンエイジ・ジーザス。最初名前決まってなかったんだよ。オレが入ってみんなで名前考え て、で、ティーンエイジ・ジーザスになった。ま、リディアが考えたんだけど。マースはもう演ってたね、CGBG行ったらもう演奏してた。だけど、リディア とかと知り合いだったから、マースのメンバーとも知り合いになったと。でマースの友達にアート・リンゼイとかがいたわけだ。

で、オレが行った頃はアートも音楽やってなかったし。イクエちゃんは、ま、オレがティーンエイジでライヴやれば見にくるじゃない、そのうちにアートは自 分もやり出したいなと思うようになったんだろうな。それで、キーボードのロビンと組もうとして、で、イクエちゃんもいたから。ま、多分NYの連中って、音 楽が出来るとかじゃなくて、独特のものを作ろうとするから、だから日本の女のコをドラマーにしたら面白いんじゃないかっていう、そういうアイデアだと思う な。で、誘って、イクエちゃんそんなこと初めてだったけど、だけど面白そうだからって始めて。オレはその頃はもう、ティーンエイジがロンドンに行くって、 抜けたから。ちょうどその頃始めたんだな、イクエちゃんは。それがなかったらもう帰ろうかな、という話もあって、だから、逆になっちゃたんだな。それから もう20年、今では彼女はNYの母と言われてるよ。

とにかくジェームスとオレはティーンエイジ・ジーザスを一緒にやめることになったわけだ。それで、ジェームスは自分の、ジェームスには自分のバンドの構 想があったんだろうな、それでバンドを作り出して、やっぱり身近にいた人達を引っ張ってって、やりだして、で、ドラマーを捜しているっていうので、今日本 人でいるからって、紹介してあげて、で、ヒゲが入ることになったわけだ。で、オレはもうその頃そろそろ帰ろうかなと思っていて、自分のバンドを東京に帰っ てから作ろうと考え始めてたから。だけど、コントーションズのデビューのライヴだけは、オレがベース弾いたんだな、まだベースがいなかったから。で、ヒゲ はその後もコントーションズにいたから何回かやってるはずだよ。それで年が明けて78年になって、それでそろそろ帰るかなって時に、ヒゲも一緒に帰って来 ちゃったんだけど、あの時はどういう話だったんだっけなあ。その時には一緒にやろうぜって話ではなかったはずなんだけど、まあ、東京帰ってこういうのやろ うって喋ってたんだろうな、で、なんかわかんないけど、一緒に帰って来ちゃったわけだ。

だけど、ジェームスのバンドなんかは、コントーションズなんかは、ちゃんと演奏すると普通になるんだよ、あれ、うん。ジェームスは一番音楽的だしさ、そ れでジェームス・ブラウンじゃない。ただ、歌が下手とかさ、そういうんで変な感じが、うん。あとメンバーが、ただスライドやってるのがいるとか、そのへん はやっぱり違う感じになってるよな、パット・プレイスね。とにかく彼女のあのスライドっていうのがポイントなんだよ、ギターに関しては。あれは、元々マー スがやってたんだよな、一番最初は。で、リディアもやりだして。フリクションでもマッチャンが何曲かやってたよね、あれは面白かったもんな。あれはその辺 から持って来たんだけどね、だから、あれはギター知っちゃってる人がやるのは、やりにくいことなんだよね。だから、フリクションの場合は全然違うんだけど ね、ずっと音楽やってきた人達だから。それをオレはNY行って、そうじゃない人達が出したアイデアを貰ったということだ。

フリクション/1996記事:EX 1996年10月号

FRICTION ストーリー
■ インタビュアー 末次里志氏、EX、1996年10月号

 


フリクション/1996記事:EX 1996年9月号

FRICTION 楽しめよ、だけど殺しちゃうぜ
■ インタビュアー 末次里志氏、EX、1996年9月号
■(インタビューを含めた記事より、レックの発言部分を掲載)

俺の場合、演奏してて、そこに人が来てれば「楽しんでくれ」というのもあるし、「殺しちゃうぞ」というのもあるわけだ(笑)。両方あるんだよな、うん。

ジミヘンも言葉を借りれば「リズムとモーション」なんだよね。俺の場合、音楽をやる時にメロディーではなくってさ、そのリズムとモーションが大事なんだよ な。俺はクルマを運転出来ないんだけど、100キロとか150キロのスピードで走ってて急カーブを曲がるとかね。あるいは勾配があって、立体的にも変化し たりする。コトバで言うとそれなんだよな。それが俺には気持ちいい。FRICTIONは今はとりあえず3人なんだけど、それを出したいと思って失敗した り、成功したりしてるわけだ。

別にトリオにこだわってるわけじゃないよ。キーボードの音とかパーカッションの音が浮かんでいるんだけど、かえってそういうミュージシャンを雇おうとは思 わない。イマイにしても(若いという)年齢がポイントではなくって、同じくらいの歳でも出来る人がいればそれで構わない。俺は今46(歳)なんだけど、要 は俺があいつらに何をあげられて、あいつらから何をくれるのかってところでやってる。音を出せばそいつが今、何を観ててどんなことを考えてるかというのが 全部出ちゃうからね。

だから、融合と対立っていうのは違うモンじゃなくてね。音を出してる時は同時にあると言うか・・・昔でもメンバーが喧嘩してる時に録った音の方が、後で聴 いて面白いとか。そういうことは往々にしてあるみたいだな。じゃなければ近藤(等則)さんとはやってなかったと思う。向こうはジャズ畑だし、俺はロックン ロールでやってきたわけだからさ。要は、YES/NOがはっきりしてるというか、近藤さんと演った時は意外とそれがはっきり見えてたから面白かった。なん か気持ちよかったんだろうな。近藤さんは俺のこと、「シティボーイ、シティボーイ」って読んでたけど(笑)。

俺の場合は常に「edge」というコトバが大切で。音楽でも何でも俺は、エッジがないものはつまんないと思ってる。
(サンタナのインタビューから)
あの人は日本にもよく来てて「日本のミュージシャンは皆うまい」と。「だけど一つ足りない」って。それは土曜の晩に向こうでは皆、週末のパーティーとかに 出かけるじゃない。その時に友達もいなくて一人で部屋にいたりする時の、「その感じがないんだ」みたいなことをサンタナが言ってたわけよ。
俺が思うに、それを自分を一人でキープ出来る力みたいな。多分そういうものだと思うんだけれども・・・それは孤独感なのかもしれないし、それをどうにかす る力というのかな。俺は勝手にそういう風に捉えたんだけどね。日本人はなんかこう、すぐ人と一緒になってしまう、という感じがあるじゃない。それはミュー ジシャンについての発言なんだけれども、やはり「edge」というのもそういうところからしか出てこないのかもしれないな、と思うしね。

(Zone Tripperの由来について)
あれは俺が作った言葉じゃなくて、「ハード・ウェア」という映画を観ている時にパァーっと入ってきた言葉なんだ。要するに頭ん中がいちばん動くというか さ。映画の訳(字幕)には「ゾーン・トリッパー」とは出なかったし、確か「旅人だよ」みたいな訳だったけれども。最初は、「音」として入ってきたんだよ な。トリップするというのは昔からあったし(笑)。実際旅もしたし。やっぱ旅している時って、ある種の快感があるじゃない。もちろん生活はあるんだけれど も、一つ所にいるんじゃなくて。あの感覚が基本的に好きで。昔はよくヒッチハイクもしたしね、うん。今でもトラック見ると助手席に乗りたくなったりして (笑)。あの感じが好きなのかもしんない、旅とかトリップとか。

フリクション/1995記事:MUSIC MAGAZINE 1995年11月号

東京の近未来を生き抜いていく、そんなイメージだね、新作は モンスター・グループ、フリクションの7年ぶりスタジオ・アルバム制作を独占リポート
■ インタビュアー大鷹俊一氏、ミュージックマガジン95年11月号
■(インタビューを含めた記事より、レックの発言部分を抜粋)

ふだんからあまりレコード作りたいとかって思うことないからね。曲もそんなに作んないし。それがここ数 年、スタジオ・アルバム作りたいって雰囲気が自分の中に出てきたんだけど、でもレコーディングのことってわりとわかってるじゃん。そうすると前の編成で本 当に作るとなると大変だろうなってのがきちゃってね。今回レコーディングですんなり行けたのは、やっぱりイマイ君が入ったせいだよね。それは大きい。
ラピスとは年齢も近いし音楽とか似たようなところで生きてきた部分もあるから、いろいろわかるじゃない。それはすごく楽なんだけど、基本的にラピスの場 合、音が優しいんだよね。どんなにギューンとかやっても。俺は音出すときって、どうしても優しいだけじゃダメなんだよね。口で言うならドスッとかバキッて いう、相手を傷付けたり突き放すっていう気持ちが表われたような音が欲しいわけ。イマイ君の場合は、言ってみれば才能を感じたというか、ね。ギターのプレ イはオーソドックスだけど音楽が聞こえてきたんだよね。若い奴じゃなかなかないよ。それって。
いろいろ調べたよね。ただ最初からプロデューサーは立てるつもりだった。というのも7年前にロリとやってすごく面白かったから。で、雑誌や好きなレコードとか調べたりはしたんだけど、一番簡単に言えば面倒くさくなっちゃってさ。
それと今回は俺も全部ギター弾こうと思っていたから、それだったら東京でやった方が沢山の種類のギターを試したりできるんじゃないかと思い出してね。
3人の経験とかが同じだったら今の俺だったらセーノで録った方が良いんだけど、今のフリクションは随分経験の差があるわけで、ライヴやっててもいっぱいスピード調整とかあるからセーノで録っても逆にその方が時間を食いそうだと思ったわけ。

今回は彼(ロリ・モシマン)が録ってないじゃない。ただ、とにかく7年前のことがあるからカチッとしてくれるんじゃないかと思ってはいたけど。やり始めて エフェクトのことなんか最初はアレッと思ったよね。ライヴでもあんなにエフェクトかけることないから。でもずーっと聞いていて不自然さが全然なくなってき たからね。いまはもっとかけてもとさえ思うよ。

最初パッと聞いてそれが良いのか悪いのか判断つかないわけ。自分の声だから。でもイヤってのはきてないわけね。すごくイヤではない。そうすると俺の場合、 様子を見てみようってことになるの。そーいう場合少し時間をおかないと判断付かないんだよね。自分があまり経験したことのないことや違うことをすぐ切って イヤな気分になったこともあるわけで、だからハナから切ろうとは思わないわけ。それに自分でやってたらそういうアイデアは浮かばないし。

ロリに頼んだってのは彼のアイデアで面白いものはどんどん使って欲しいからだからね。 何度もミックスとか聞くじゃん。そこでどーしても合わないと思ったら言った。<The Heavy Cut>かなんかで、そのときははっきり違うなってのがあったから全部やめたのがあったね。それは最初聞いたときからウーンってのがあったからロリと話し たけど、彼も自分でもあと一つ良いか悪いかはっきりしなかったと言ってるし。

ロリの場合ドラマーだったことが大きいよね。俺達みたいな音楽の場合ビート、リズムが一番重要だからね。リズムって個人によって重さとか速さとか違うけ ど、ドラマーだとその人なりにあるんだよね。だからそこから出発するとやりやすいってのはある。彼は重たいドスンってドラムスを知ってるし、サトウ君はド スンってドラムスじゃないけれど、やっぱりそういうのも欲しいからね。

ロリがときどきでっかい音を出して自分の体でバランスを聞いて確かめてるのは、椅子に座って耳で調整するだけのエンジニアじゃないってことなんだよね。7年前に思ったことはそこだよね。耳だけじゃなく身体で調整するところ。

ミックスしてるときに、アレッ、これライヴでどーしようかなって思ったことあったよね。こんなに変っちゃってって。でも聞いてるとこれはこれって感じで、 再現するためにこういうエフェクターを使ってとかは思わない。自分で聞いてると自分の声がほんとにこんな感じになっちゃってるような気がしてくるんだよ ね。

ロリは日本語で言えば丸くなった気はするよね。ただ別の言い方をすれば、誰でもいいってのはあるよね。音楽をわかって共有できれば。俺の場合、一緒にやったって感覚が好きなんで、確かに出来は問題だけど、過程が大事なんだ。その感覚が持てたんだよね。

確かに『Replicant Walk』からイメージはつながり過ぎちゃってるかもしれないね。"ゾーントリッパー"って言葉自体は『ハード・ウェア』って近未来ものの映画を見たとき に出てきたんだ。映画と歌の内容は全然違うけど、ゾーンってのは自分の内にも外にもあって、そこでいろんなものを見つけていく感じ。いろんな所を通り抜け て生き抜いていくってイメージで、多少『Replicant…』よりは前に行かなけりゃって感じはあるかもしれないな。『Replicant…』ぐらいか ら思うけど、近未来ってよく言うけど東京自体が近未来で、そこに自分がうごめいてるってイメージを持ってないと疲れるんだよね。その中で自分が行くとこ ろ、戻る場所を想定しておかないと。そうしないと一緒くたになって流されてわけがわかんなくなってしまうから、自分が東京って都市の中で動いているという 設定をしてイメージするのね。だからそういうタイトルに惹かれるのかもしれない。じゃないと、どうやって生き抜いていくのか見つからない感じがしちゃって さ。

フリクション/1993記事:朝日新聞1993年7月23日

フリクション/1990記事:Player 1990

FRICTION RECK
■インタビュアー Yoshiko Kowakita氏、Player、1990
■(インタビュー記事よりレックの発言部分を掲載)

(新生フリクションの抱負とは)
あんまり考えてないんだけどね。ラピスとか10年振りに戻るし、簡単に止めないようにしようと思ってる。(意図やしかけは)何もないよ。結局メンバーも 替って、次何やろうっていう実験は自分の中で常に行われてたんだけどね 、レコードを作る迄いかなかったんだな。
俺はね、同じメンバーでバンドを演っていても、それぞれが他の人と出会って別の活動の場を持つべきだと思うのね 。バンドが固まって全部が内側向いているのって好きじゃないわけ。今フリクションとは別に近藤等則のバンドでギ ター弾いてるけど、'82年以降の自分の中で"何かが動いてない時期"にレコード屋で偶然彼のトランペットが鳴り 響いているのを聴いて感激したね。その後会って一緒に演るようになったんだけど、そういう出会いが大切だと思う よ。ジョン・ゾーン、アート・リンゼイとの出会いもそうだったし。だから、フリクションで何をやってやろうとか ではなくて、人との出会いの中で音楽自体がおもしろくなってきたんだね。そしてその事が俺を動き出させるんだと 思うよ。

ロックって言葉は好きだけどね、特にロック・スピリットはないね。俺がNYでバンドを演ってた頃はね、バンドっていうのは誰でもできるって思っていたわ け。実際、ミュージシャンでない奴が音楽を演っていたし。絵を描いてた奴がね、今はペインティングよりギターの方がより表現できるからといってね。つま り、アイデアなの。アイデアをいかに音にしていくか、例えば、基本のチューニングじゃなくてその人自身のチューニングがあってもいいんじゃないかとかね。 そういう点からすると、今のバンドは似たり寄ったりだな。ボディ・コンの女の人が増えたのとバンドが増えたのは同じ事なのよ。
東京で見る風景と同じだよね。汚いものとか汚い人がだんだん失くなってきているでしょ。毒気のあるものが風景か ら消えてる。その中で育てばそうなるんじゃないかな。ただ、俺は好きじゃないな。

うーん、日本人がそもそもロックには向いてないとは思う。反応が同じなのね、どこへいっても。個人の反応ができ ない。例えば、外国では皆が座ってる場所でも立って踊りたければ一人だけそうしてる光景ってあり得るでしょ。日 本ではまず考えられない。それがキリスト教の国で子供の頃から"you"と育てられた違いかなと思うね。だから日本 の客は全体が同じでつまらないと思うこともあるよ。それに今はロック・バンドのコンサートが宴会と同じレベルに なってきてる気がする。

そういう風に受け取ってもらえると嬉しいね。一見無関係なような言葉が続くことによって、そこからイメージが生 まれる事ってあるからね。ただ、イメージを浮かばせようと思って作ってるわけじゃなくて、その言葉がポンと入っ ていく人には入っていけばいいと思ってる。人間は言葉によってすごく生きてくるんだよね。向こうの黒人は言葉を よく発見するでしょ。胸の中にある感情をコトバで作り上げて表現できる。例えば、日本の男の子がコンサートへ来 てもっと演奏して欲しいとする、そうすると何て言うだろう?もっと、もっとやって?どちらも変だよね。 そう、もっとハートにフィットするピッタリくる言葉があると思うわけ。たいがい"もっと演れ"って命令調になる。 もっとFunkyでもっとフィーリングに合う言葉がでてくるとおもしろい。ほめ言葉でも、よかったかすごかったかの どちらかなんだよな。NYだとgood-great-very greatそれ以上いくと汚い言葉 - shitとかがほめ言葉になったりする。ロック・バンドは増えてるけどそういう感性を持つバンドってない気がするな 。 建物と服はかわっても体質は変ってないんだろうな。

音楽―プレイする事にここで終わりっていう限りはないんだよね。だからバンドやっててラッキーだと思うのは、演 れば演るほど発見がある。ちょうど底も天井もない状態かな。10年前に比べるとフィーリング的にはもっとうちへ deepになってきていると思う。昔は来てる客に向って全部ぶっつけてきたけどね、今は演奏してる中でのバンドとしてのアンサンブルがすごく大事になって きてるかな。
ただ、今のメンバーは非常にぶつけ合う作業ができていいよ。音楽でケンカも出来るし、話も出来る。 ひとつだけ憶えているのは、フリクションをやる前の3分の3というバンドで大学祭の野外ステージを演ってる時、もう言葉ではいい表わせない位いい気持ちに なった。ギターを弾かずにその場に立ってるだけでそれだけでとにかくいいの。滅多にないことだけどね。メンバーの出してる音に完璧に満たされてる。今だっ たらナチュラルハイって言うのかな、あの状態は。

音楽は不思議で、どんなに疲れていても音楽をやると気持ちよくなるのね。音楽ってビートだからね。心臓のドクッ ドクッっていうのもビートでしょ。皆誰もが持ってるものだしね。だから音楽は病気を治したりとかいろんな用途に 使えるんじゃない。
子供でも放っておくと何かしら叩いたりしてるしね。実際、ロック・スピリットなんてそんな所にあるかもね。人間 は動物だからね、多分誰もがどこかにもっと野生というかワイルドなものを持っていると思う。今はそれが隠されて 埋もれてしまっている気がする。最近溢れているロックには、毒気のようなもの-野生とむすびついている何かが余 りにも稀薄になってきているね。そう、キレイでつるつる。もっとザラザラした何かが欲しいよね。

うん、日光に"見ざる・言わざる・聞かざる"があるじゃない、あれの本来の意味はどうなのか知らないけど、意識し て見ない、意識して聞かないという姿勢は必要だと思うよ。だって周りの情報量って凄まじいものがあるでしょ。そ して歩いてみよう、捜してみようとする事ね。誰もが行かない裏道が面白そうかなと思う感性が大切だと思う。今は 全てが受け身だから。吟味する暇がないんだね。だからあえて~する事が重要になってくる。
日本だけでしょ。いつの頃からかロックが子供向けになって、又若い子が金持ってるもん。何故だかしらないけど。 ロックが氾濫して逆に耳が退化してるかもよ。
そう、自分の知らない世界、恐いけど魅かれる、そういったものがなくて、全部平らで全部見えてて何の不安もない -その方が逆に恐い。音楽にも神秘性が必要でしょ。要するに魔法-マジックなのよ。ビートで人は踊るし気持ちよ くなるし、人間も電気を発してるからね。

(10年前のフリクションを見たという発言に)
そう?でもユーモアのあるバンドだったでしょ。説教ぽくはやっても全然シリアスじゃない。俺達をみてバンドを始 めた奴も多いみたいよ。
俺は、やっぱりジミ・ヘンかな。モンタレーのライヴなんて信じられない程クレイジーでしょ。ライヴは聴衆とその 場で一体になれる-非常に宇宙的だよね。俺もジミ・ヘンからもらったものを出している-いろんな出会いの中で得 たものを自然にね。単純なことだと思うよ。ジョン・ゾーンなんてNYと東京を行ったり来たりして自分のバンド、 ピースにヘビメタからギターつれてきたりジャズ系の人入れたり。出会いを音楽に実践してる人間じゃないかな。

音楽は全く何かが失くなる所だね。男と女でバンドやってても通常の男女間の意識を越えちゃうし、本音でぶつかり 合えるしね。ところで、今度のライヴ・ビデオはもう見た?石井さんもロックは最近撮らないらしいんだけど、俺が 声かけたらOKしてくれてね。あれ見てて久々に感動したよ。NYから帰ってきて感動したのは近藤等則のペットと あのビデオかな。いや、石井さんの腕前に感動したんだよ。

フリクション/1990記事:GRAMOPHONE 1号(1990)

特集:東京ロッカーズ  (Scherz Haruna)
■ GRAMOPHONE 1号(1990.3.6 インタビュー:UMEDA,OZAKI 吉祥寺ポアにて)

 H:東京ロッカーズって名前自体もさ、別にそういう名前があったわけじゃなくて、たまたま、ライヴを バラバラにやってたのをね、バラバラにやってるだけじゃ、こう、広まって行かないっていうことで、そういう仮のタイトルをつけて。ライヴの企画のタイトル みたいなもんだよね。仮にそれをつけてやったっていうのだけで別にバンド同士に協議があったとかっていうんじゃないから。ま、もちろん全くやな奴とはやり たくないっていうね、そういう皮膚感覚的な部分はあるけど。それ以上のものじゃないから。
だけど、それはそれとして、ともかく、いくつかのバンドが動いてきたっていうだけが、本当の事じゃないかな。で、そ、だから、具体的に言えば、そこに出 てる、多分、書いてあるようなバンドが動いてるよね多分ね。うん。それは結横、だから、向こうからの、ほとんど、同時進行というか、向こうで、パンクなん かが起きた時と、ほとんど間おいてないっていうか、リアルタイムで入って来たって感じはするよね。で、それは、後で、そん時は知らないけど、レックとヒゲ が、たまたまニューヨーク行って、向こうで、その、現に、バンド入ったりしたでしょ。なんかして、そこで、実際にもう、その時実際に起きたあのエネルギー とかいうのを、そっくりそのまま持って来てフリクションはスタートしてるし。もちろんその前に、あの、後で聞くと、みんなバンドの歴史って長いんだけど、 そこでやっぱり、なんかもうひとつプラスαが加わってこう、エネルギーが出てきた、っていうのはすごくあるような気がするね。だから、一言で言えばすごい エネルギーとスピードがあったよね。そのエネルギーとスピードに、見てる方も感動して、自分の中のエネルギーとスピードを出そうと思ったんだろうね多分。 だから、なんか、そういう風に感じたよね、自分は。
実際に、ま、それまで、全然ライヴハウスって行ったことないし、だけど単にやってる奴が、なんか演技、お芝居みたいに芝居をやって、こっちは見てるって いうんじゃない、なんか、いつでもここに座ってる人がそこへ立って、そのまま立っておかしくないっていう。で、実際そういう、さっきまで目の前でしゃべっ てた子が、次にね、バンドが足りなくなってチェンジしたりとかっていうのが、ごく自然にあったところで、何かこうさ、すごく、リラックス出来るっていう か、すごくリラックスして楽しめるっていう。それがとっかかりですかね、多分。あんなにリラックスして楽しめるところ、なかったからね。

~~見だしたのはいつごろですか?

H:え-とね、年度とかそういうのは知らない。忘れたけど、グラハム・パーカーとか来た次の日。ほんと。グラハム・パーカーが来たんだ、日本に。で、俺は それまでパンクってのは情報では知ってたけど、実物を見たことなくってね、そんとき新聞に前の日にグラハム・パーカーはパンクの父、と書いてあったからタ イトルが。パンクの父見ればパンクわかるだろうと行って、それで、つまんなかったのね。だけどつまんなかったけど、ん-、何か、いいところもちょこっとは あるかな-という感じはしたんだけどつまんなかった原因を考えたら、言葉がわかんないっていうような気がしたのね、詞みたいな。だから、そう思った、多 分、次の日にロフトで、フリクション、S-KEN、ミラーズ、とかなんか、リサードも出てたかな?その辺のバンドか出てるのがあって、あ、日本のバンド だったら、日本語分かるから、その全体がわかるだろうと思って行ったのが最初だったのね。でともかく、かっこよかったよ。かっこよかったとしか言いようが ないよ。

~~やっぱりいちばん好きだったのはフリクションですか?

H:っていうか、もちろん、バンドとしてもあるけど他にも好きなバンドいっぱいいたよ。バンドが好きっていうより何かその動いてる全体が好さだっていう か。別に後から思うと、別にその個々のバンドにね、何か共通点はないんだけど、だけど、その時は思い込みとして、こんなに、こんなに、いると。で、ふつう 表に出て来る音楽っていうのも、ずーっと音楽聴いてるから、70年、80年の音っていうのは、殆どカスみたいにしか思ってないから。その間聴きたいものが 全然ないと思い続けて、仕方なく古いロックンロールとか聴いてたけど。だけど、そういうのってダイレクトじゃないでしょ。こう、知識でしかないじゃない、 聴いてても。だけど、知識じゃないものとして今、動いてるっていう気持ちの良さっていうのが一番何かね、その思い込みで付き合っちゃったってとこもある。
やっぱり、通して言葉でしゃべれるようなものとしてね、バンドが残してきたものっていうのは、ま、レックはすごくインタビューでしゃべってるから活字に なってるけど、他のバンドは、そんなに自分の思ってることや考えってのを言葉にのるような形ではね、残してないような気がする。音楽についてはしゃべるけ ど。だけどやっぱり、なんかその-・・・・なんか、音楽だけじゃないんだよね。凄くその、プラスαの部分でなんかこう、もっと強いものをもってる。それは 確実にあったと思うよね。思い込みじゃなくてね。でも、それが、その後時間が経つ中で、自分自身の中で、それぞれの気持ちの中で、消えちゃったりしてる と、結局はなかったのかな、と。でも、確実にその瞬間に思い込んでるのかもしれないし。だから、きちんとその相手の事見てないけど、音を聴いてるとかそう いうんじゃない、もっと強いものってのがあったような気がするけどね。気持ちみたいなものが。音を越えて、気持ちがあって、とりあえずは特にビジョンはな いんだけど、とりあえずはNO、と言ってみて、それでも一応NO、つて言って、排除してみるっていう。そこで何が残るか、みたいな。そういう感じはしたけ どね。で、自分もそういうもんだと思ってたけどね。 だから、俺なんかやっていながら、東京ロッカーズとか、ああいう音楽がさ、音楽雑誌の記事ネタにしか なんなかったでしょ。それがすごく不満だったのね。ああいう動きに関してかろうじて興味を示したのが、こう、今動いてる人で、吉本隆明って人は、スターリ ンを聴いてるんだよね。その人ぐらいでしょ。何かそういう関係のあることとして聴いてたっていう人は。でもそれ以外はほとんどが音楽のひとつの基形みたい なものとしてしか残ってないっていうのが。
それは多分、音とか、その瞬間のもので表せるんだけど、それをうまく、こう、何て言うか、文字化できなかったっていうか。そこでは何も起きなかったっていう気はするけどね。
だけど、ともかく頭でっかちに考えることじゃなくて、今しゃべると、すごく頭でっかちな出来事みたいに思うけど、それは、突際にその場がないからね、喋っ ちゃうから。ただ、気持ちがいいってことだよね。すごくムダなものを捨て切っていて、必要なものだけあるっていうかんじが気持ちよかったっていう。かっこ 良かったしね。なにしろ。かっこがいいっていうのはすごく・・・。きたないバンドは嫌いだったから(笑)。
みんな、だから、自分自身ってのをすごく分かってるっていう感じがするんだよね。だから、ある型を着てるっていうんじゃなくて、自分はこれを着たいから着 てるっていう感じの形の良さ。それはひとりひとり、個性があるからさ、みんな同じようにスマートだっていうことじゃないんだけど、だけど、自分自身、本当 によく分かってる。それはやっぱりかっこいいと思うなぁ。

~~それからずっと、見てらっしゃるんですよね。

H:ん、何となくね。
や、フリクションの場合には、完全にダメになるまで見ようと思ってるから。それはもう、自分が感じる感じないじゃなくて、もし、どうなるか知らないけど、 ポシャったらポシャったで、ポシャるとこまで見たいと思ってるってとこはあるよね。多分、バンドという形の中で、やっぱり、そういういろんな、こう、音だ けじゃなくってね、その、人間関係、音じゃないんだよ、音楽ってのは、特にロックバンドってのは。だから、自分とあなた、一対一の人間関係でどれだけ自分 をいつも出していけるかっていう事だから。っていうと、そういうのすごく意識化していってね、しかも、言葉だけじゃなくって、現にあの、言葉で言えてる人 はいっぱいいるんだけど、現にそう言ってる奴が会ってみたとき、形がよくてね、で、スマートにそこにいてねっていう、そういう全部のこと考えるとやっぱ り、フリクションっていうか特にレックね、レックのやってることっていうのは、一番突出している部分だと思う。だから、個人的に興味ある以上に、それが、 今のこの中で、どう闘って行くかっていうか、あるいはどこで沈んじゃうか知らないけど。つていうのを見届けるっていうのがやっぱり、すごく興味があるよ ね。ひとつの方法としてやっていくっていう。だから、あるところから、バンドやめちゃったから、一緒にはできなくなっちゃったけど、違う形では、いつも、 凄く意識してる。だから、バンドが停滞するっていうのはなんか、そういう、そういうやり方そのものが全然通用しないっていうね。そういうのは常にあったと 思う。

~~実際、見てる方側からやる方側へなってみると、どんな感じですか?自分の好きなバンド(フリクション)に入った訳でしょう。

H:入ったんじゃないんだよ、別に。もっと、だからさ、もっとステップがあるわけ。そこまで行く前に。一番最初は、見てよかったっていうのがまずあるで しょ。スゴいって感動した。それで、あんなにときめいたのはないわけよ。いろんな動きがそれまであったとしてもさ、みんな、その場で見てるとさ、本気にな り切れない、なんかこう、本気になり切れない部分ってのが見えちゃってさ、それだったら一人でやってる方がいいっていう意味で、ひとりでやってた時期が多 いんだけど、あれだけは、本当に、こう、入り込みたいと思った初めてでさ。それで、だから、自分のできる事って言ったら、その時は、グラフィックとかしか なかったから。それを売り込もうって思ったっていうのは、小さな間違いなんだけど、要するに、何でも、何か自分が出来たら、服が縫えたら、多分服作らし てって言った思うけど、そういうなんか自分の、とりあえず持っている何かできることっていうんで、ポスター作らしてくれって言ったのね。その後、何回か後 で。それで、あ、いいよっていうことになって、作り始めたのが最初。で、その後、だから、殆どチラシとかポスターを作るってことで、付き合ってたっていう か。で、その中で、何となく知り合いになってて、そういうのがあって。だから、そんなに、抜擢されたとかね、そういう感覚と違うよね。楽器持ってるの、 やってみる?って位のもんだよ。

(中略 他のバンドやパフォーマンスをやっていた話等)

H:それも、でも、結局あそこでいくつか同時に動いてたあの加速度が無かったら、多分やんなかっただろうね。その加速度がそそのかしたってとこ。 やっ ぱり多分何かその気があって興味を持って何かを察してほしいと思ったら簡単に何かできたのね。そういう余裕はすごくあったと思う。バンド自体がまだそんな にバンドっていうふうに固まったもんじゃなかったからね、やりやすい。
だけどそれって別にほんと、あの、その日だけのことじゃなくていいわけだからね。今だっていいわけだし。今だって楽しもうと思えば、楽しめるし。

~~東京ロッカーズを今特集して、その頃の事を聞くのは自分は楽しいけれど、だけど今何かしようって、今のこれ状況で何かやりたいし、やろうと思ってい るから、過去のことを振り返るのもいいんだろうけど、(ここで、ハルナさんがテレコを持ってこっちに近付ける。)

H:これをのっけた方がいいかもしんないよ。 編集者の主張ってやつを(笑)。

~~昔の事って今から聞いてもかっこよかったんだろうなっていうのはわかるんですけど、今特集して、何になるのかなって時々思ったりもして、聞いてるぶ んには自分は楽しいからいいんですけど、それだったら、今をなんとかしたい。で、自分から、どれだけしかけていけるかなって、今それがすごい興味があっ て。でも、この時の状況と今の状況って、違うっていうと甘えかもしれないけど、やっばり多少なりとも違って、自分白身入り込めない部分っていうのがあっ て・・・。難しいですね。でも私は今をすごい大切にしたいと思うんだけど・・・。

H:ん、やっぱり、生まれた状況ってすでに差があるわけだし。その差の中で、簡単に人に声をかけたりする出来事ってのがしにくくなってるとは、いろいろ 読んだりするよね。そうならざるおえないっていう感じ。だから、多分、声をかけようと思って実際かけられるのに必要なエネルギーつてのは俺以上に今、育ち つつある人の方がたくさんいるっていう気はするけどね。思うけど、でも思った時にどれだけ出せるかだってしかないから。

~~もう、この時代はダメだとか、よく言われたりしてるけど、そんなこと絶対ないと思うし、今のメディアももっと積極的にしかけていけば、そんな、嘆い てる暇があれば、まだ、若いんだから、行動することはできないはずないし、周りもダメだダメだって言ってるから、それに流されてるっていうのはあるような 気がするけど。一時期私もそういう時期はあったけど、そんなふうに言ってたら、何にも始まらないんじゃないかなあと思いますけど・・・。

H:そうだ!(芙)。
最終的に、だけど、今、そういうおっきな、そういうのが一番試されてるのが結局もうひとりにかえっちゃってるよね。その人が自分の中でダメだって思った ら、もうダメだし、まだいけるなって思ったら、その分いけるし、っていうことにかかっちゃってきてるよね。でもそれは、どんな状態の時もそうなんだよ、多 分。それを、みんな誰かが決めてくれるだろうと思ってるから、結局牽制してるんだよね。多分。
みんな、バンド、フリクションなんかストレス解消にされちゃってるでしょ。会社って面白くないって来て、あ-スッキリしたっていうだろ?それはとんでも ないことでさあ、ストレスを解消させたいためにやってるんしゃなくて、そういう意味ではもっとストレスをこう、濃くしてあげるためにね。

H:レックの古いインタビューとかは、バンドを通してどれだけの事をやろうとしてたかっていうのを、すごく正直に言ってると思うけどね。バンドの見えな い練習の過程の中で、君は何をやりたいんだっていうのを常にずーっと言われるしさ。それがすごい、それがフリクション。それさえ見えてれば、いいんだよ ね、バントなんか別にやっててもやんなくても。で、少なくとも、みんなそれが、自分はこれをやりたいんだっていうのが見えてる奴が何人か集まんないとそれ はそれで人数集まったことになんないでしょ、命令されてるだけじゃ。そこがバントの中としては、試されてるよね。

~~そういうバンドってものすごいキツいと思うし、それに、そういう人達が集まるのってなかなかないことなんしゃないかなあって。

H:日本の場合、自分、じゃなくて、いつも相手にとっての自分ていう自分だからこれ知識で読んだことあるんんだけど、IとYOUって無いんだよね、翻訳 語が、ほんと言うと。外国で、いうIっていうと常に確実にこう、交わらないものとしてあるのね。日本の場合は常に、あなたにとっての私っていう、あなたか 変わっていけば、どんどん私も変わっていくわけね。っていうのを何かで読んだけど。ん、そういうのを軸に思うと、すごく良くわかり過ぎちゃって。それを、 ひとりで、自分自身のこと決めようとする、ことなのかもしれないけどね。そういう習慣か全然ないから、それがひとりになったとたんぷら-んとしてすごくヘ ヴィなんだろうね。多分外国のロックバンドはとりあえず、楽器持ってきてどんなへタなバントでも、ぱんっとステージに立った瞬間、それを仮に立った状態と すると、日本のバンドはもんのすごい訓練しても、ようやく、ステージだったら、寝たくらいの、そのくらい差があると思ってた方がいい、ロックっていう同じ ものでも。ロックは輸入品じゃない?そのぐらい違うものとしてある。だから、当然、出て来る一発目の音っていうのは強力さが違うでしょ。

フリクション/1990記事:GRAMOPHONE 1号(1990)

特集:東京ロッカーズ  (地引雄一)
■ GRAMOPHONE 1号(1990.3.3 インタビュー:UMEDA,OZAKI 草加にて)

☆まずゼルダの話から始まって、地引さんが、最初は以外にも(と自分達は思った)小嶋さんと親しかった、ということで、ゼルダ関係の話で盛り上がり(?)女の子バンドの話になって、

-- 本当に女の子だけのバンドはBOYS BOYSだけですか?

地引:うん、そうだね。その前にも、いろいろあったんだと思うけど、いわゆるパンク系で出てきた中では最初じゃない。
東京ロッカーズから聴きだして、東京ロッカーズ時代にはパンクがあったでしょう。最初、パンクがすごいなあと思って。でも、パンクそのものも、どんどん 変わっていったじゃない。5年かそこらで、本当に面白いものっていうか、パンクが出てきた頃は本当にね、新しいバンドや新しい音楽聴くのが本当に楽しみ だったのね。聴き逃すと遅れちゃうんしゃないかと。そういうぐらい、どんどんどんどん新しい今までなかったものが出てきた時期ってあってさ。日本のバンド にしろ、ライヴハウスにそれこそ毎週何度も顔出して。でも、もうひととおり出尽くしちゃった感じがあってね。それほどロックから新鮮なインパクトをうける ことが乏しくなっちゃってね。

-- 東京ロッカーズって、正確にどれくらいの期間だったんですか?

地引:正確にいうとね、78年の5月末のS-KENスタジオのオープニングのイベントが最初で、最後のイベントは79年の4月。オムニバスのLPが出て、それの発売記念で、名古屋と関西と福岡と。それが、東京ロッカーズの名前使ったのが最後。

-- 東京ロッカーズの頃、関西や福岡など、他の地方の動きはどうでしたか?
地引:関西では、アーント・サリーやINUとかSSとか。スタータラブも結構早いんだよね。東京ロッカーズの名古屋ツアーの時に、地元のバンドが前座でい くつか出てさ、その時に出てた中の一つで。その時にみんなスタークラブ結構よかったとか言ってて。他のバンドがなんかね、サザンロックとか多くて。で東京 で夏にイベントがあった時(スタークラブを)呼んで。その時、ササンロックやってた中のメンバーに、くじらっていうバンドの杉林君なんかもいたらしいんだ けど。

--(杉林さんって)そんな古い方なんですか。

地引:うん。そんで、東京ロッカーズ見て、ショックを受けてこんな事やってらんないっていうんで、東京出てきて。それに、関西のアーント・サリーやINU とか、SSも、東京ロッカーズが、最初の関西ツアーをしたのを見て、まあ、影響受けた連中と、反発して負けらんないってINUみたいに出てきたりとか。だ から、かなりあちこちに影響を及ばしたというかね。

-- ラピスさんがフリクションにいたのはどのくらいなんですか?

地引:フリクションのデビューが78年の2月だかに、リサードがまだ紅蜥蜴っていってた頃、北区の公会堂で。一応は小嶋さんが主催してって形になってたけどね。

-- 実際は別の人が?

地引:実際はモモヨがやってた。まあ、その頃が最初で、最初の関西ツアーがその年の10月で、それまでラピスだったんだよね。

-- どうしてラピスさんはぬけたんですか?

地引:生活態度が悪かったからじゃない。

-- ・・・というと?

地引:っていうか、フリクションの場合ね、すごい、東京ロッカーズの中でも異色のバンドで、レックとヒゲが1年近くN.Y.で向こうのバンドとやっていた でしょう。しかも、TEENAGE JESUS & JARKSとかリデイア・ランチとか、ジェームズ・チャンスとか出てきたところに、一緒にやってたから。一番N.Y.で凄い時期にど真ん中で。向こうの人 間関係とか感覚とか、全然日本と違うみたいでさ。帰ってきた当初日本人とか、ロックとかなんかやってても、どっか変に相手のことを気にしすきちゃったり、 ストレートにお互いの持っているものを出し合えないみたいなところどっかあるでしょう。どっかちょっと引いちゃってるみたいな、そういうのすごい嫌って ね。向こうの人間って、お互いに自分の自我みたいなものをぶつけ合って、その中から、一緒に結びつけるものを探していくみたいな。そういうある意味ではむ き出しの部分でつくるという。そういう感覚っていうものを、そのまま日本に持って来て。東京ロッカーズの衝撃的な部分って、かなり、フリクションに負うと ころが大きいんじゃない。紅蜥蜴は、そういう意味では、結構、7年ぐらいアンダーグラウンドなところでやってて。五木寛之の小説にもなってて、知る人ぞ知 る存在だったのね。俺は、結構理解できたね。それ以前の日本のアングラの歴史みたいな70年代のカウンター・カルチャーみたいなのを背負ってる部分があっ てさ。でもフリクションっていうのは、それまでの日本のロックの流れとか、そういう、日本人の感覚そのものとまるっきり、かけ離れてて。音楽だけじゃなく て、ルックスとか、着ているものとか、チラシ1枚とってもね。今まで見たことのないような感覚だったよね。すごいなぁと思って。何でこんなに凄いんだか僕 自身もなかなかわからなくって、言葉にできないというか。

-- 感覚の違い。

地引:フリクションは、メンバーどうしのあいだでも、お互い持っているものを出し合って、そこで一つの音が作っていけるかどうかっていうのを、本当にシビ アにとらえてるバンドで。反逆としてやってくみたいなんじゃなくって、そこでズレるところがあったらダメって。

-- また、今のフリクションで、ラピスさんやってらっしゃいますよね。

地引:フリクション自体もどんどん変わってくからさ。前のレックとラピスは合わなくっても、今だったら、合うってこともあるのかもしれないし。

-- 恒松さんが入ったきっかけは?

地引:マッちゃんはね、その前から別のバンドやってて、東京ロッカーズの崩初の頃からS-KENスタジオというところで、イベント毎週やってたんだけど、 そこに毎回顔出してたのね。そんで、他のバンドでM r・カイトっていうバンドと親しくって、セッション的に飛入りでやったりとか、ゴジラ・レコ-ドってその頃出してて、3枚目のシングルでソロだしたりとか やってて、ギタリストでたまたまあいているというか、一応力もあってやれるというのがいたんで、とりあえず一緒にやってみよう、ということで。でも、最初 の2、3回はあまり良くなかったよね。で、どうかなっていう感じだったんだけど、1か月位してかな、合いだした。今でもおぼえてるもんね、屋根裏の正月の ライヴの時だったんだけどさ。何かかんじができたっていうか。ライヴだんだんやって、新しいフリクションできたな、みたいな。

-- その頃の状況を鮮明におほえてますか?12年前位ですけど。

地引:うん。あの頃はともかく、ライヴ・ハウス、最初はS-KENスタジオで、7月8月に毎週日曜日に4,5バンドすつ出てイベントやってたのね。その 後、秋からは、関西ツアーがあって、あと、ロフトや屋根裏とか都内のライヴハウスで何バンドずつとかやったりして、翌年になって、あのオムニバス盤の発売 が決まって、結構大きな形でロフトなんかでやるようになって。で、必ず週に1回や2回はあったんだけれども、1度でも顔を出さないとおいていかれちゃう感 じがしたね。もう、一瞬たりとも目が離せないって感じだったよね。その何年か後から考えると、それ以降テレグラフ始めるようになって、十年以上たっちゃう けど、印象に残っている出来事って、最初の三年問が凄い強烈なの。後から思うと、それ以降の3年間、4年間って、比べものになんないくらい最初の3年間、 特に最初の1、2年かなあ。ものすごい面白かったよ。本当にそのわずか3年しかなかったのかなっていう位自分にとっちゃ、集中した時間だった、と。

-- やはり、78年くらいの時期ですか?

地引:うん。


(以下略)

フリクション/1990記事:GRAMOPHONE 1号(1990)

特集:東京ロッカーズ  (恒松正敏)
■ GRAMOPHONE 1号(1990.2.12 インタビュー:UMEDA,OZAKI 国分寺 次男画廊にて)
■(恒松正敏のインタビュー部分を抜粋)

(東京ロッカーズ以前の状況について)
恒松:ま、今みたいではなかったよね。バンドも少なかっただろうし、レコード出しても、日本のバンドなんてのは、数百枚位しか売れなかっただろうし、数百 枚売れれば売れた方みたいな。たまたま東京ロッカーズっていうシーンがちょっと盛り上がったっていうのはあったけど、それ以前にも同じようなことやってる 連中ってのはやっぱりいたわけね。うん。ブルース・クリエイションとか・・・。それでもほとんど売れてなかったけど。セールス的に。

(その頃の時代の空気は?)
恒松:難しいね・・・(笑)。だから、今の時代と比較してみると、やっぱり今の時代の方が浸透してるっていえばそうなんだけど、むしろ昔の方がスピリッツがあったのかな、と思うこともあるけどね。うん。
ま、今でも真剣にやってる奴は真剣にやってるだろうし。真剣っていうか、ほんと裸だったようなね、うん。今だってそういう連中、若い連中いるだろうけど、やっぱり大半はすごくファッションになっちゃってるっていう気はする。

(パンクとは?)
恒松:なんか、自然になったっていう感じかなあ。だからこう、それまでもバンドとかやってて、なんか表現しきれないものがあって。それで、あの頃ニュー ヨークの方の音とかね、聴いたとき、あ、これ、これだな、っていう。やられちゃったなっていう気持ちが半分みたいな。
ピストルズって、なんかに書いてあったかもしれないけど、やっぱり最初はどっちかって言ったらニューヨークの方聴いてたからね。どっちかって言ったら、やっぱりあっちの方が好さですね。

(例えば?)
恒松:リチヤード・へルとか、トム・ヴァ-レンとか。

(影響された?)
恒松:っていうことは、妙響されたんじゃないかね、うん。

(実際に見たことは?)
恒松:それはないんだよね。日本出たことないし。あ、でもトム・ヴァ-レインが何年か前来たよね。あん時行ったけどね。

(リチヤード・へルの来日)
恒松:あ、行こうかな、と思ってる。ストーンズは行かないけど。もう外タレなんかね、数年に一回しか行かない。

(今まで見た中で一番良かったのは?)
恒松:それはやっぱり、その時で違うからね。10代の時見たのと、20代と、30代とじゃね、こちらの受け止め方が違うから、その時その時で、ま、感動してるかなって。ツェッペリンが一番最初に来日した時とかも、感動したし。

(東京ロッカーズとは?)
恒松:ん-(笑)。ただこう、なんかちょっと否定的な見方だけど、あんまりくっついてても、いつまでもくっついててもしょうがないなあとは思ってたけどね。どっちかって言うと。
俺はね-、だからフリクションに入った時には一応東京ロッカーズっていう名称はなかったけれども、そういう動きはあったからねぇ、もう。

(その頃、人間的に面白かった人は)?
恒松:いやあ、やっぱり、レック、ヒゲ(笑)。うん。あとはね、まあ個人的な友達とかはいっぱいいるけどね。うん。結局、あれからもう10年経ってて、お 互いそれぞれ年とったけど、ヒゲが時々電話してきたりするけど、レックはこの間電話でちょっと話したけど、もうそれだって3年ぶりかそんなもんで、たまに しか話しないけど、やっぱり、なんていうかな。月並みな言い方だけど、人間的にも成長してってるな、とか、すごいわかるし。で、みんながんばってるで しょ。バンドで、めずらしいよね。外国にだってあんまりこういうケースはないんじゃないの。一緒にやってた3人が3人ともまだやってるっていう。たいが い、誰か一人残ってやってるけど、あとはもう、10年たつと、大体消えちゃってるからね。3人が3人ともやってるっていう、それは、俺はすごい誇りに思う なって、すごく思う。だから、そういう3人だったからこそ、やっぱりすごかったんだなあと。ま、だから長続きしなかったのかもしれないけど(笑)。

(今とライヴハウスの感じは違う?)
恒松:違うよね。佐藤ジンっていう写真家知ってる?あれが、2、3年前かな、写真展やってたのね。彼はそういう東京ロッカーズの頃からずっと写真撮り続け てて、それをずっと年代順に並べて、わりと最近のものなんかもこう、年代順に、ダーッと壁に並べた写真展があって、それ見に行って思ったんだけど。やっぱ り、ま、昔は良かったっていうんじゃないんだけど、あ、面白いな、と思ったのは、音の方がなんかごった煮的な面白さがあったな。たとえば、その5バンドっ ていうのがあるんだけど、今また長髪が流行ってるけど、おんなじバンドの中にね、長髪がいるんだけど一人はパンク頭してるしみたいな。だから、どっかなん か野暮ったさがあって、あるんだけど、もっとこう違う、それだけいろんな要素が混ざっててね、音楽的にも面白かったんだなあと。で、だんだん見てきて、時 代がこう、最近に近づくにつれて、みんな画一化していくんだよね。みんな、こう、おんなじポーズなんだよね。恰好も。だからそれを見るとね、あ-なるほど なあと思って見てて。
うん、だから、ハード・コアなんて何年か前ちょっと流行ったりして、俺は好きだったけど、そういう連中が5年ともいわす、3年後に何やってるかってそれが一番大事だっていう、ことかな、うん。

(当時の人間の感覚とか意識とかは?)
恒松:そうね、でも、基本的にはあんまり変わんないと思うけどね。表層だけが移り行くというか、そういう感じだね。だから、今バンドブームっていうのも、あともう10年も経てばまた、ま、残る奴は残るだろうし。

(リアルタイムでは聴けなかっただけに憧れが強い、というインタビュアーの発言に)
恒松:ま、それはわかるよね。例えば、一番最初に初めて洋楽聴いたのはビートルズだしね。それからまた70年代があって、それでパンクとかあるし。でも、 それって同価値なんだよね。で、それ以前の、例えば50年代の音楽もあるわけね。だから、俺はビ一トルズっていうのはリアルタイムで聴いたんだけど、で、 バンドとかやってる若い奴に話聞くと、「一番最初に聴いたのはピストルズです」なんて言われるとね-、俺達とは違うれかなぁと思うんだけど。それと同じ で、話がそれちゃったけど、俺にとってみたら、50年代の音楽っていうのは、後になって聴いたわけね。追体験した、それと同じことだと思う。それに対して の憧れっていうのはあるよね。50年代の音楽をリアルタイムで聴いたらどうだっただろうとかっていうのは。そういうのと同じなんじゃないの。

(後略)

フリクション/1988記事:MUSIC MAGAZINE 1988年6月号

よりしなやかにNYのリズムと交感し合うフリクション ロリ・モシマンのプロデュースで新作をレコーディング
■大鷹俊一氏の記事。ミュージックマガジン88年6月号
■(記事の中からレックの発言を
抜粋)

何か高円寺とニューヨークが隣り合わせでつながっている感じなんだよね、今回は。
ロリに決めたというのも、いまだにどうしてだかよくわかんないとこがあるんだよね、ヘンだけど。ゴダールに捧げたアルバムでアート(リンゼイ)とやってる のとか、ワイズブラッドでロバート・クインなんかとやってるのぐらいしか知らなかったし、プロデュースしたのも聞いたことなかったもんね。ただアートに相 談した時に名前が出てきたんで、それじゃあってんでライヴのテープを送ったんだよ。そしたらミックスだけじゃなく、もっと深く関わってやりたいということ だったんだ。

最初、3月にこっちに来て、彼の家で全体の演奏をやったり、ドラム・マシーンにパターンを打ち込んだりして長さを設定していったんだ。そうしたなかで <バッド・ラック>という曲だけは、やってたリズムとちょっと違ったものになったのね。それはロリがこういうリズムにしたほうがいいんじゃないか、今のま まじゃ聴いてて進んでいかないってことで変えた。今回俺は、極端に言えば曲が全然変っちゃってもいいと思ってたのね。初めて会う人間で、そいつに頼むと決 めたわけだから、そいつが出すアイデアをとりあえず受入れてみようと思ってたわけ。

でも基本的に変化があったのはそれくらいで、あとは曲のなかでこれ一つ減らしたほうがいいとか、歌と歌の間が長過ぎるからこうしたほうがいいんじゃない か、程度だったね。だけど、今回は1曲が長いから、俺もどう削っていいかってずーっと考えてたから、その点ではずいぶん助かったね。

結局長くやってればやってるだけ、お互いにいろんなものを出し合っていかなけりゃダメだと思うんだよね。ライバル意識みたいなものも互いに出してないと甘 えばっかりになるし。ヒゲとのことも、やめた、やめないとひと言じゃ言えないなにかがあるんだろうね。簡単なことだとは思うんだけど、やっぱり根は深いと 思うよ。付き合いが長い分だけ、間隔をきちんと開けておかないと強い音を出し合えないというのが、絶対あるんだ。

今回とくにレコーディングでいろいろやったのはキーボードに関してなんだよね。というのも、キーボードは俺、あんまり気にしてなかったのね。セリガノにし ても、もともと専門家というわけじゃなかったし、これまでのレコードでもほとんど使ってないのね。ギター、ベース、ドラムスに、せいぜいトランペットと同 じで、さみしいからとか音質変えたいからぐらいの感じで、それぞれのフレーズとかは出来上がっていたんだけど、それをどう散りばめようかみたいなのがはっ きりしなかったんだ。もちろんここに入れようというイメージはあったし、結果的にはだいたいそこに入ったんだけど、ロリはもっと鮮明にしたって感じ。

ちょうどこれみたいに(とアップルパイをさす)少し崩れていたのを、こう、きちんとしたんだろうな、彼は。俺たちはこれならこれで楽しめちゃう部分ってあ るじゃない?でもロリはやっぱり、パイの形をしてないとダメなんだろうね。ライヴじゃなく何度も聞くレコードなんだからって言って、音質にもすごくこだわ るしね。

最初、ドラマーだからドラムスが好きなんだろうと思ってたんだけど、自分じゃコンビネイションが好きだって言うんだ。だからそういう意味でもギターとか キーボード、ベース、ドラムスなんかが、俺の考えていた以上に混ざり合ったと言えるね。どうしても日本人同士でやってるとビシッと固めきれない部分がある わけ。それは日本人の持ってる資質があるから、いいか悪いかわかんないけどもね。友達同士でバンドやってても、ノリが悪いからもう1回やってみろ、って言 い合うことって少ないよね。まぁいいんじゃない、みたいに流れて。

こっちのヤツって、いまのプレイはダメっていう根拠を論理的に言えるんだよね。ロリももちろんそうだし。そして、こうしたいんだったらやり直すしかないん だろうってことになる。東京にいれば俺がその役目をやるわけだけど、今回は全然知らない人がポッと入ってきて言うわけだから、タイトにならざるを得なかっ たし、そういう凝縮感はすごくあると思うね。どうせ東京に帰ったら自然とダラッとしてしまう部分はあるんだけど、とりあえずレコードはニューヨークという 街と混ざり合ったものでいいと思ってる。

日本だとみんな友達感覚になってしまうでしょう。何で音楽やってるかっていっても、もちろん好きだからというのは最低限あって、その上で自分の論理という のを組み立てていくわけだけど、日本だとそういうのをいつも自分にインタヴューしてないとわかんなくなってしまうんだよね。だからパンクでもブルースで も、はやれば何でも好きだからっていうんでやっちゃうけど、でもそれじゃあ長続きしないと思うよ。つねに自分で何をやりたいのか、何をこいつと作りたいの かってことを問いかけていかないとね。

やっぱり重たいものを一度やったから、いま俺自身がこの音をすごく楽しめるというのはあるんだよね。音楽自体を10年前より全然楽しんでるもの。東京ロッ カーズのころは、3人がガァーって吐き出したいものをやって、それはそれでよかったんだけど、いまはもうそれじゃ楽しめないもの。もっと織物みたいにギ ターとかベースが混ざり合ってガラを織っていくほうが、ずっと面白いからね。それにマッちゃんや、もしかしたらヒゲなんかもソロの人かもしんないけど、俺 はやっぱり一人でというより、他人とこう交わっていくのが好きだしね。

ニューヨークってのはね、もう10年前じゃないからすごく身近になってるよね。来てもワァーっていうのはないし、帰っても昔みたいに疲れたりもしない。本 当にそっちの角から高円寺につながってそうな感じなんだよね。 ただ俺とかヒゴ君は、プレイして長いから、ニューヨークでレコーディングすることに一つのスリルは感じるわけ。

また次に作る時に来ようと思ってもすごく大変かもしれないし。でも若い奴は、いま日本の方が機械なんて進んじゃってたりで、そういう思い込みはあんまりな いかもしれないね。もちろん見えているものとか環境が全然違うわけだから、面白いとは思ってるんだろうけど。

でもさっきも言ったように、どこがどう面白かったんだみたいな質問をつねに自分にして、ロジカルにとらえておかないと、ただロリにハイハットのこういうやり方を教えてもらったんだという感覚的なものだけじゃあ、すぐに肝心なものはなくなってしまうと思うよ。

フリクション/1988記事:rockin' on 1988年8月号

レック(フリクション)インタビュー 東京ロッカーズから10年、攻撃性はどう昇華されたのか
■インタビュアー増井修氏、ロッキンオン88年8月号
■(インタビュー記事からレックの発言を掲載)

(スキンディープ以来の6年間について)
6年間ねえ、うーん、何だろうな。要するにレコード出したいとは思わなかったんだろうね。フリクションってバンドはあったんだけど、演奏してるって手答え がなかったからね。やっぱ、飽きちゃったというか。だから、俺は一緒に演奏してて手答えがある人を探してたからさ、特にそれはバンドというものじゃなかっ たんだよね。あのレコードだしたあとは、友達のミュージシャン集めてステージ立ってたんだけど、彼らは一生懸命やってくれてもそれ以上の必要なアイデアっ て出て来ないからね。だから、バンドのためにバンドをやるのに飽きちゃったというか。
あのね、それは音楽が楽しくなってきたからだよね、最近。で、演奏が楽しくなったのはギターを弾き始めたからで、俺、近藤等則のIMAバンドでギター弾いてるからさ。要するにプレイ、人と演奏するっていうのがどういうことなのか、そこで分かった気がするな。

(近藤さんとの出会いは)
デカいだろうね。俺は近藤さんからやっぱ影響ていうのを受けてると思うし、俺は与えてると思うし、あのね、近藤さんの話になっちゃうけど、最初に観に行っ た時は『何だ、こりゃ』って思ったんだよね、俺、フリー・ジャズとかインプロビゼーションには全然興味なかったからさ。ただ、すごいエネルギーだなとは 思ったんだよね。一人で一時間なり二時間なりやっちゃうわけだから。
うん、だから俺は前のフリクションの時は音を尖らせることにずっと頭が行っていたんだよ。でも、最初に近藤さんと面通ししてジャムってる内に音が開かれて行くような気がしたんだよね。
というより飽きたんだよ。でもあの頃は、自分の感じるままにやって、それを楽しんでたからね。ただ、その頃は好きになるってことより憎むってことが大き かったな、色んなことを。ニューヨークから帰ってきたばっかりだったからね、なんで日本ってこうなの?っていうのがあって、それをどうにかしようってい う、そこで生まれるエネルギーを自分で楽しんでいたんだと思うんだ。
いや、怒りっていうのはあるんじゃない、どっかには。あの、俺はそれほどね変ってないとは思うんだけど、好きになることが増えたんじゃない?やっぱ物事って裏表だからね、片っぽだけ見ててもしょうがないし。

(ボーカル自体も変ったようだが)
それも意識してやってるわけじゃないからね。ただ、やったらああなったってことなんだよね。まあ、10年経ってるしねえ。だって、今のバンドのドラムなんて俺が高校生の時はまだ赤ん坊だよ。
うん、でもね、扇動するって言ってもわかっちゃうんだよね、客には。あのー、愛がないと。ホントだよ。うん、ホントに。ステージ降りて、そいつが悩んでる 姿が歌ってる時に見えればいいけど、そうじゃなくてただバカにしてるだけっていうのは客に伝わっちゃうしね。
ショックを与える……うーん、俺はなんか演ってる側の人間の音が仲良くなりすぎちゃうのが嫌なんだよね。やっぱり、そういうのは音楽にマイナスになるで しょ。それに、リスナーとも変に馴れ合いたくないし。ホントに覚醒を促すならそれこそゲバ棒持ってっていう世界になるけどね、古いけど。だから、そこまで 大げさなことではないけど一人一人が音でケンカするぐらいの気がないと音楽って面白くなんないからね。

(フリクションは現在のシーンから遊離してるが、音楽環境をどう考えるか?)
……考えないね。だから、今BOOWYとか爆風スランプとか聴いてる子にどういう風にアピールして行くかってことでしょ。そういうことは……そうだね、も う少し考えれば良かったね。だけどね、俺は自分の作ったレコードすごくいいと思ってるからね。やっぱりそういう若い子達にショックになればいいと思うし ね。今わりとみんな面白がり方が一緒でしょ。だから、俺はこういう音楽が楽しいし面白いと思うから、それがみんなに伝わればいいというね。
いや、俺は昔から温厚なんだよ。だから昔はね、インタビューでも自分の中の攻撃性ってものを表に出して楽しんでいたんだよね。だけど、音楽に関しては丸くなったとか全然感じないからね。むしろ、広がったって感じるよ、音が。

(昔のファンが「なにが音楽の楽しさだ!馬鹿野郎」と言ったら?)
言われたって、色々形があるでしょ。それにそんな人はいないと思うんだよね。
言ったら。それが、人生だよ。俺の人生だよ。うん。

フリクション/1987記事:宝島 1987年12月 15巻2号 p.41

パンクは日本のミュージシャンにどういう影響を与えたか
■宝島 1987年12月 15巻2号 p.41

証言3
レック(フリクション)
パンク?僕がNYに行く前(76年)からバンドの名前だけは知ってたよ。変な名前のバンド(笑)。トーキングヘッズだとかセックス・ピストルズとか。音 は知らなかったから自然と音が聞きたくなってね。実際NYに行ってみると東京でレコード聞いているのと全く感じるものが違う!
自分も向こうで演奏したんで、より痛感するわけ。スゲーなって。パンクというのは人が名付けただけで自分たちで呼んでいたわけじゃないんだよね。音楽的に もロンドンとNYのパンクではやってることは全然違う気がする。テレヴィジョンのえいきょうはあるかもしれないけど直接的にこれっていうのはないな。

フリクション/1985記事:Punk On Wave may-june 1985 vol. 1

SPILT・ WORDS・RECK (Picked up by SAKEVI)
■Punk On Wave may-june 1985 vol. 1(レックの発言部分を掲載)

 俺が"パンク"という言葉をあえて使うならば、それは精神だと思う。それは音楽じゃなくていいと思 う。とにかく俺はその頃はね、やりたい事をやる。いいたい事を言うっていう事が"パンク"って言葉で呼んでもいいんじゃないか?っていう風に感じていたん だけど。それは変らないよね。そうすべきだと思う。
ただ、俺が一番感じるのは、例えばロックにしてもパンクにしても、音を一人じゃなくて、まあ、バンドっていうの
は他者がいるわけでしょ。そこでさ、ぶつかり合えるさ、存在じゃないと生まれる物がないと思う。とにかくそこの中で…・。とするとさ、日本人っていうの は、まとめる方向に絶対行くと思うの。っていうのは相手の気持ちを、やっぱりすごく考えるんだよ。それはどうしようもないの。もう。
俺もニューヨークに行く迄は、向うのニューヨークのミュージシャンっていうのは昼アルバイトして、夜バンドをやってると。で、俺もアルバイトしてバンドを やってると。俺は同じだなと思っていた。で、同じなんだっていう事で勇気づけられたりするじゃない。で、行ってみると同じなんだけど全然違うわけだ。って いうのは、風土も、社会全体も違うでしょ。だから同じ様にアルバイトしてバンドやっていたって、全然違う事なんだよね。例えば、本屋でアルバイトしている 奴がいてさ、そいつは仕事をする自分の机を持っているんだけど、その机の周りに自分のバンドのポスターをベタベタ貼りまくってるしさ。その辺でも違うで しょ。だからさ、そういう意味で今、日本っていうのは、ゴッタまぜになってるよね。だから向うの物っていうのを頭で知ってるし、すごい知ってるでしょ。だ から俺が一番思うのは向うの事、とにかく知ってる訳じゃない。そういうバンドにしろ何にしろ、知ってるけど、そいつらがどんな風に暮らしているかとか、そ の土台っていうのはイギリスという国であるし、もっとその地域でもあるんだけどさ。そこは知らない訳じゃん。身体でさ。だからやっぱり知りすぎちゃってん だよね。情報としては色んな事を。だからかえって自分の足元が見えてないって感じするよね。

俺が思うのはさ、結局知らない訳だから、情報が入ってきて、ま、すごいなぁとか、カッコイイなぁとか思って自分でもそういう風にやってみたりしてね。だ けど向うでは現実に違う訳だから結局。だけど俺はそれでもいいと思う訳だ。それでもやっちゃえばね。だからとことんやっちゃえば、見えてきちゃうのから さ、変わっていくと思う訳。絶対、だから、やんないよりか、とにかくやっちゃう方がいいと思う訳。で、やってるうちにさ、とことんやってく奴は見えてき ちゃうから変わっていくと思う訳ね。やっぱおかしいとか、なんか居心地悪いとか、これは違うなとかさ。だから何もやらないよりは、絶対やった方がおもしろ い。俺自身そうだからさ。
だから最初はその子供達が、たとえばローリングストーンズをやりたいなって言ってやってみる。全然悪くないもんね。ただその後は、あとはそいつ次第だからな。どこまでやっていくのかっていうのはさ。ただやめていく奴が殆どかもしれないけれど。

フリクション/1981記事:Signal-Z No.2 / 1981

TSUNEMATSU MASATOSHI
■インタビュアー:シュルツハルナ氏&地引 雄一氏
■Signal-Z第二号 1981年8月(インタビューの中から、フリクションに関する部分を掲載)

(フリクションとは)
それはフリクションです。フフフ。どんなバンド…。うん、フリクションとしか言いようがない。
フリクションで出来たことは、あのEPとライブ、出来なかったことは……これ。だからって、このテープは出来なかったことを、うっぷんを晴らそうってか、 出来なかった部分をやろうってんじゃないの。だから半分半分だな。この……フリクションの中でつながっている部分と。

(フリクションで変ったことは)
それはもちろんある、ある。だけどそれは別にレックとヒゲじゃなくても誰か他のバンドでやってたとしても、もちろん変ってたろうと思うし、何だってやっぱ し出会いだと思うしね。で、俺は常に変りたい、ていうのは基本にあるね。うん、昔のあれでいうと、Like a Rooling Stoneっていうコトバは、死んだコトバじゃなくてまだ自分の中で生きてるコトバだし、何か自分よりいいもんを持ってるヤツとか会ったらヤッパシ、自分 にとりこめそうなことは吸収したいってのはある。でも今までもいろんなバンドやってきたけれど、やっぱり一番面白かったね、フリクションとやってた時が。 例えばこう……他のやつとやってて3年かかって出てくる問題ってのが、1年ぐらいでキュッとあったって感じなんだ、本当に。

(やめた時したかったことは)
何がしたかった?
ビリヤード、ウフフ、俺本当言うとね、レコード作って終わったころにフリクションやめたんだけど、その頃からつい最近までギター弾きたいっていう……弾き たくないんじゃなくて、弾きたいっていう欲求を忘れたっていうかな、なかった。それが最近またすごく、ステージやりたいっていう気になってるんだけどね。

フリクション/1980記事:Player 1980年 No.154

フリクション
■インタビュー:八木康夫氏  Player 1980年 No.154
■(インタビュー記事より、メンバーの発言を掲載。名前の断りのない発言はレックによる)

(昔のこと聞かれるっていうのは?)
一応聞いてみて・・・いいよ・・・。

(好む方?)
昔のコトはあんまり好まないんじゃない。だけどいいよ別に・・・答えないかもしれないし・・・参考程度・・・ね。

(ツネマツにフリクション以前のバンドについて尋ねると)
ツネマツ:ノーコメント!!

もう忘れたいんじゃない、昔のコトは・・・思い出したくないって事・・・。
だけどさ、何かやってる人って捨てたいと思っても恐さがつきまとうじゃない。だからなかなかパッとは捨てられないだろうし、スゴイ恐いことだと思うから ね。で、やっぱり彼は今までのを捨てたがってたと思うんだよ。オレたちとやることで、その切っ掛けになったんじゃない・・・今でもそれは(前のスタイルの フレーズ)出てきちゃうけど、そういうの押さえる訳だもん。それ、止めろっていう風にさ。

ツネマツ:でもなんか、それも(前のフレーズ等)終わったって気がするね。終わったっていうか・・・壊す作業っていうのはフリクションの最初の頃にスゴクやってたというかね。

(「軋轢」について)
あの" Crazy Dream" はね、オレは詞が好きな訳・・・それで詞が全然古くなってないし、だからアレンジを変えてやったのね。" Big-S" もやっぱり、自分の中でまだ持続してるから、アレンジを変えてね。うん。

(もしかして好き嫌いが分かれるんじゃない? 前の方がいいっていう人と。)
うん、そうだと思うな。オレも・・・。オレは当然今に近い方が好きだね。

(" No Thrill"について)
この曲はね、ホントは歌が入ってたのね、昔は。ステージでは3回位やっただけだから、シンセサイザーが入ってるのね。シンセサイザーという楽器がね。

(それは坂本龍一?)
違う!オレが弾いてるんだけど、ステージじゃできないじゃない。だから、そういう部分もアルバムにはあるよね・・・入れたらどうなるかとかさ・・・。

(今度のアルバムで坂本龍一の役割っていうのは?)
それ、必ず聞くんだよね。だれでもね。随分アイディアみたいのはさ、演奏のスタイルとしては3人がやっているナマに近い音で取った訳ね。それで後はドラム に変なエコーかけたりとか、その作業で彼が相談役になったっていうのかな。で、彼はこのドラムこういう音にしちゃったらとかさ、意見を出す訳ね。オレたち が「あっ、それいいんじゃない」って言ったらそれ使ったし、もっとこういう音にしてくれっていう所で彼は随分動いてくれたよね。こういう音が欲しいってい う時に分かんないから、彼が一生懸命エンジニアと一緒にこうじゃない、こうじゃないかってさ、その音を拾ってくれたっていうか。
あの人が直接手を下しているのは" I Can Tell"って曲ね。全くスネアのバーンと入るのと同じにあの人がシンセサイザーでバン!バン!っていう音叩いてるわけ。シンセサイザーでもそういう音出 るから・・・。バケツ叩いてるみたいな音、バーン!バン!バン!それだけ・・・他にやりそうになったけど止めさせたの。そんなに坂本龍一って人知らなかっ たし。

(興味はなかったの?)
うん、知ってるのはイエロー・マジックっていう所で知ってるだけでさ、イエロー・マジック聴いたことなかったしさ。

(最初に想像してたのはかなり坂本龍一が入り込んで行くんじゃないかという・・・。)
えっ!そういう気がしてたわけ? オレ、入り込ませなかったもの。うん、あの人が一杯やりたがって、例えばシンセサイザーをちょっと入れてみてて、あっ! これもやっちゃおうかみたいなさ、ノッて来ちゃうとね・・・(彼に)あ、それ、もういらない、いらないって言ってさ・・・。

(楽器なんかには拘る?)
うん、それはある程度拘るよね。だって、自分の好きな音が極端に出てくれない楽器なんて使いたくないよね。

(プレイヤーのインタビュー記事なんかでも前は弦がなんとかだとか色々あったでしょう)
だからね。オレ、分かんないけど、やりすぎなんじゃない、アレ。

ヒゲ:昔はヒドイ雑誌だなあと・・・。最近、写真とかちょっと、あ!変わってきたなと・・・。

それはさ、あの、そいつが自然に使ってて、この弦を選ぶようになるのは自然だと思うけど、なんか日本のギター・キッズっていうの?最初からそれじゃない。 最初からそれを使わなきゃいけない、みたいなさ。だから、もう音楽やるって感じじゃないよね。関係ない所でトリップしてるみたいだしね。それは感覚的な部 分で、例えばコンサートの前には弦を取り替えるとかさ、そういうのはある。でも、オレは錆びてても使ってるし、だから弦は切れたら取り替えるってタイプな んだと思うよ。
ニューヨーク行って、全然みんな(楽器に)拘ってないからさ、あるもんでそれ(音楽)を、ただ自分で出すために使うという、そのセンスだと思うしね。自分 がバンド作ってステージに立って何かを見せたり聴かせたりするっていうのにスタジオでさ、いい音を自分の思ってる音を出せる時間の方がずうっと長かったり して、だから完全にコピー出来てからとかさ、その辺、ひっくり返んないと全然オモシロクなんないんよね。ゼッタイに・・・。

(誠実さとその正反対にあるものについて)
日本の場合、誠実さみたいなこと、もの凄く少ないと思うわけ。マンガでもなんでもとても皮肉っぽく描いちゃうけどさ、そっちばっかりの気がするわけね。プ ラスチックスみたいなバンドにしてもさ・・・その正直とか誠実さみたいなものがもっと出し方として必要な気がするんだよね。なんでもマンガチックにしちゃ うのが多いと思うな。だから、日本で真面目に出したら、きっと凄く・・・コケにされるんだと思うよ。あの、周りからね、古いこと言ってるとか、うん、なん かそういう感じ。ワカルでしょ・・・正直になってる時、真面目に話しちゃうと、周りがつまんないこと言ってんじゃないよって感じでさ・・・バカにするよう なことって凄くあると思うのね。
だから、どうにかするっていうのが行き過ぎちゃってる気がするよね。ごく普通の部分っていうのは、もうみんな出さなくなってるっていうのかな。出すの恐れ ちゃってる・・・っていうの。そんな気がするね。皮肉っぽくしてから出さないと気が済まないような・・・気がするな。

日本ってなんか、やっぱり"NO"っていうアクションが必要だと思うね。"どうもどうも"じゃなくて、ひとつ誰かが"NO"って見せるようなことをしてい かないと、分かってるんだけど、曖昧な所で過ごしてっちゃうと思うのね。それはさ、もういろんな部分にはびこってるわけよ。オレたちの中でもあるかもしれ ないし、気が付いた時にはさ、オレはそういうの凄く嫌だから直していくけど・・・ステージの上と下でもあるわけよ。"NO"とも"YES"とも両方とも言 い切れないって部分が・・・。だからね、バンドも困っちゃうわけ。"NO"とも"YES"とも言ってくれないじゃない、聴衆は・・・。そうすると、絵でも そうだと思うけど、自分が、じゃ何やってるだろっていうのが、あるところまで行くと分かんなくなってしまう。だって返りが絶対に必要じゃない。返ってき て、それで次が分かってさ、次、次ってね。

ヒゲ:だから日本って随分その中にどっぽり浸かっちゃってるからさ、お互いに、だから首を絞め合ってるよね。出たらちょっと叩くとかさ、叩くと引っ込むしさ、で、結局何も無くなっちゃうのね。

だからね、それはステージやってると分かるわけよ・・・今度は一人になった時に、例えば自分が自分の友達とか、そこにもあって、そういう所をはっきりさせ ていかなければ、やっぱり何も変わんないじゃない。バンドやってて、そういう変わり方をしない限りステージで何をやっても変わんないよね。だから凄い敏感 にさ、ならないとダメだと思うのね。
感受性ってのがあるじゃない。感受性って言葉が・・・そういうのは日本人ってもの凄く豊かだと思うわけ。幅があってさ・・・。だけど反対に豊かすぎてね。自分が首締められているような事って一杯あると思うね。
今度は何を出そうかなって、とか、なんかやりたいなって思う時に、知ってることとか一杯あるからさ、音楽にしても文にしても、描くことにしても・・・なん か、色んな事知ってるから、自分が反対にそれが出せなくなっちゃうっていうの・・・ギターでもそうだと思うね。音楽やりたいっていうんでも、もう見方が沢 山・・・そいつにとっては見方が沢山あるからさ、ね。そういうものを消せないっていうの、だから、コピーもしなければならないしって所に行っちゃうんじゃ ないの、豊かだからね。そういう、ギターの音のはこびとか感じちゃうんだと思うんだよね。凄いな、とかさ。で、その大きな凄いなっていうショックが違う方 向に働いちゃうみたいにね。だから、絵描き始めたり、音楽やり始めた時っていうのは、何かを聴いたり見たりして自分もやりたくなるわけじゃない。ショック だと思うよね。そういうショックでやり始めるんだと思うけどさ、今、そのショックがなんか変な方向にね・・・。
ただ、ロック・バンドが一杯出てきたっていうのが、そういう意味で面白いと思うんだけど、Boys Boysだってそうやってやり始めたバンドでしょ。後はそのバンドがどうやってやっていくかという、やり始めれば問題が一杯出てくるわけだから・・・。そ ういうこと解決しながら、何かやっていくっていうのがさ、良いことなんだと思うよ。面白いことなんだと思うよね。

評論について?書いてあることは当たってたりするわけよね。みんな批評家のっていうのはさ!だけど、何となくその人間が信用出来ないっていうの、もう、そういう感じはあるね。

(ロフトなどで客が飛び跳ねて床の揺れが激しい、という話に)
ステージじゃもっと揺らしてるからね。その揺れっていうのは必要なんだよ。東京って場所はさ・・・揺れなさ過ぎるんだもん。そういう感じするでしょ。どこ行っても揺れてないじゃない。
他のバンドっていうか、他のバンドって言っても色んなバンドが出てるけど、なんかビートが古いんだよね。ビートがさ! だからこの前オレたちと一緒にラジ オでアナーキーとかRCサクセションだっけ?凄くビートが古いわけね。だから、それだけでちょっともう嫌になるな。相変わらずビートがもの凄く古いわ け・・・だけどやってる奴が古いんだと思うなオレ・・・8ビート出してもね・・・その本人が・・・。

ヒゲ:若い奴の方が歳取ってるんだよ。

というのはさ、若い奴はやっぱり一部しか見えてないと思うからね・・・。ドラマーがね、8ビート自分が叩いてるのに新鮮さ感じてなければもう古いんだよ ね。だから楽器やり始めた子っていうの・・・それが叩き出す方がもの凄く新鮮なんだよ。だから幼稚でも、巧く叩けなくてもね。それは絵を描いてる人でも、 ギター弾いてる人でも、自分のやってる事がさ、なんか新鮮じゃなければもう古いわけよ。

(トレーニングはする?)
トレーニングっていうのはさ、全てトレーニングなつもり。オレはね。こうやって喋ってるのも歩いてるのもさ、100%じゃないんだけど昔よりそれ、体で感じるね。

(東京ロッカーズのアルバムジャケットについて)
あれのジャケットもみんなで考えたわけよ。一応。だけど、オレのだけじゃない。だから、そんなに(思ったように)出せなかったよね。オレは随分意見を言っ た方だけどね・・・みんな、わりかし自分の事なのにさ、そんなに一生懸命になんないのね。自分たちのレコードで自分たちのジャケットなのにさ。どうしたら いいかってことあんまり考えて意見を持ってこないわけ。どうして、そんなに自分たちのことなのに一生懸命になんないのかと思ったけどね。わりかし、バン ドってステージでやるのには一生懸命になるかも知れないし、けど、ひとつ自分で喋ることだとか、自分たちの写真が載ることとか、もっと意識しないとつまん ないよね。バンドって・・・だから体の隅々まで気にしてないと、つまんないと思うわけ。どっかで誤解が生じるし・・・なるべく分かってないと知らない間に 自分たちが知らない所に行っちゃうよね。凄く気にしてないと、特に東京なんてそういう気がするね。自分のことなんだもの、全然当然のことだと思うよ。当然 なこと忘れてる人が多いよ。絶対多いよ。

オレが思ってるのはさ、凄いやっぱり基本的なことなんだよね。それは凄く・・・この20何年間かさ、育ってきた間に忘れてることなんだよ。多分・・・(フリクションを)やりながらそこに戻りたいというかさ、そういう感じね。感じでいくと・・・。

(それがフリクションをやってる上での基本?)
オレの場合はね。やっぱり、オレはそういうことバンドの中でも喋るし・・・。

ヒゲ:何ていうのかな、子供の時って、オレ・・・なんか・・・だから、子供の時って凄い好きだよね。自分たちの昔にあった事とか、それがやっぱり・・・大 人になってもそういう話出来なくなってるし・・・。色んな情報が頭の中に入り込んじゃってさ・・・勝手に、じゃ・・・こう・・・聴き方はとかさ、全部そう いうのが自分のスタイルの中に入って来ちゃってるわけよ。

それはもう、本当にね、肉体の一部になっちゃってるような気がするからさ・・・。

(何回でも、その事を言い続けていかないと・・・)
それは結局、半分か半分以上は自分に向けて言ってることだと思う。真実ってなんでもない事なんだよね。時々分かるんだけど、なんでもない事だと思うよ。本 当になんでもない事・・・パッと気が付く事ってさ、あの・・・その瞬間っていうのホントに人に伝えられたらいいなと思うわけね・・・。そこに気が付く人っ て少ないんだと思うよ。それは、自分の中にもう既にあるからさ、気が付かないわけ。その・・・
(で、どんどんそれすら忘れちゃって。)
そうそう、それを掘り起こす作業なのかもしれないな。