2011-05-27

フリクション/1990記事:GRAMOPHONE 1号(1990)

特集:東京ロッカーズ  (地引雄一)
■ GRAMOPHONE 1号(1990.3.3 インタビュー:UMEDA,OZAKI 草加にて)

☆まずゼルダの話から始まって、地引さんが、最初は以外にも(と自分達は思った)小嶋さんと親しかった、ということで、ゼルダ関係の話で盛り上がり(?)女の子バンドの話になって、

-- 本当に女の子だけのバンドはBOYS BOYSだけですか?

地引:うん、そうだね。その前にも、いろいろあったんだと思うけど、いわゆるパンク系で出てきた中では最初じゃない。
東京ロッカーズから聴きだして、東京ロッカーズ時代にはパンクがあったでしょう。最初、パンクがすごいなあと思って。でも、パンクそのものも、どんどん 変わっていったじゃない。5年かそこらで、本当に面白いものっていうか、パンクが出てきた頃は本当にね、新しいバンドや新しい音楽聴くのが本当に楽しみ だったのね。聴き逃すと遅れちゃうんしゃないかと。そういうぐらい、どんどんどんどん新しい今までなかったものが出てきた時期ってあってさ。日本のバンド にしろ、ライヴハウスにそれこそ毎週何度も顔出して。でも、もうひととおり出尽くしちゃった感じがあってね。それほどロックから新鮮なインパクトをうける ことが乏しくなっちゃってね。

-- 東京ロッカーズって、正確にどれくらいの期間だったんですか?

地引:正確にいうとね、78年の5月末のS-KENスタジオのオープニングのイベントが最初で、最後のイベントは79年の4月。オムニバスのLPが出て、それの発売記念で、名古屋と関西と福岡と。それが、東京ロッカーズの名前使ったのが最後。

-- 東京ロッカーズの頃、関西や福岡など、他の地方の動きはどうでしたか?
地引:関西では、アーント・サリーやINUとかSSとか。スタータラブも結構早いんだよね。東京ロッカーズの名古屋ツアーの時に、地元のバンドが前座でい くつか出てさ、その時に出てた中の一つで。その時にみんなスタークラブ結構よかったとか言ってて。他のバンドがなんかね、サザンロックとか多くて。で東京 で夏にイベントがあった時(スタークラブを)呼んで。その時、ササンロックやってた中のメンバーに、くじらっていうバンドの杉林君なんかもいたらしいんだ けど。

--(杉林さんって)そんな古い方なんですか。

地引:うん。そんで、東京ロッカーズ見て、ショックを受けてこんな事やってらんないっていうんで、東京出てきて。それに、関西のアーント・サリーやINU とか、SSも、東京ロッカーズが、最初の関西ツアーをしたのを見て、まあ、影響受けた連中と、反発して負けらんないってINUみたいに出てきたりとか。だ から、かなりあちこちに影響を及ばしたというかね。

-- ラピスさんがフリクションにいたのはどのくらいなんですか?

地引:フリクションのデビューが78年の2月だかに、リサードがまだ紅蜥蜴っていってた頃、北区の公会堂で。一応は小嶋さんが主催してって形になってたけどね。

-- 実際は別の人が?

地引:実際はモモヨがやってた。まあ、その頃が最初で、最初の関西ツアーがその年の10月で、それまでラピスだったんだよね。

-- どうしてラピスさんはぬけたんですか?

地引:生活態度が悪かったからじゃない。

-- ・・・というと?

地引:っていうか、フリクションの場合ね、すごい、東京ロッカーズの中でも異色のバンドで、レックとヒゲが1年近くN.Y.で向こうのバンドとやっていた でしょう。しかも、TEENAGE JESUS & JARKSとかリデイア・ランチとか、ジェームズ・チャンスとか出てきたところに、一緒にやってたから。一番N.Y.で凄い時期にど真ん中で。向こうの人 間関係とか感覚とか、全然日本と違うみたいでさ。帰ってきた当初日本人とか、ロックとかなんかやってても、どっか変に相手のことを気にしすきちゃったり、 ストレートにお互いの持っているものを出し合えないみたいなところどっかあるでしょう。どっかちょっと引いちゃってるみたいな、そういうのすごい嫌って ね。向こうの人間って、お互いに自分の自我みたいなものをぶつけ合って、その中から、一緒に結びつけるものを探していくみたいな。そういうある意味ではむ き出しの部分でつくるという。そういう感覚っていうものを、そのまま日本に持って来て。東京ロッカーズの衝撃的な部分って、かなり、フリクションに負うと ころが大きいんじゃない。紅蜥蜴は、そういう意味では、結構、7年ぐらいアンダーグラウンドなところでやってて。五木寛之の小説にもなってて、知る人ぞ知 る存在だったのね。俺は、結構理解できたね。それ以前の日本のアングラの歴史みたいな70年代のカウンター・カルチャーみたいなのを背負ってる部分があっ てさ。でもフリクションっていうのは、それまでの日本のロックの流れとか、そういう、日本人の感覚そのものとまるっきり、かけ離れてて。音楽だけじゃなく て、ルックスとか、着ているものとか、チラシ1枚とってもね。今まで見たことのないような感覚だったよね。すごいなぁと思って。何でこんなに凄いんだか僕 自身もなかなかわからなくって、言葉にできないというか。

-- 感覚の違い。

地引:フリクションは、メンバーどうしのあいだでも、お互い持っているものを出し合って、そこで一つの音が作っていけるかどうかっていうのを、本当にシビ アにとらえてるバンドで。反逆としてやってくみたいなんじゃなくって、そこでズレるところがあったらダメって。

-- また、今のフリクションで、ラピスさんやってらっしゃいますよね。

地引:フリクション自体もどんどん変わってくからさ。前のレックとラピスは合わなくっても、今だったら、合うってこともあるのかもしれないし。

-- 恒松さんが入ったきっかけは?

地引:マッちゃんはね、その前から別のバンドやってて、東京ロッカーズの崩初の頃からS-KENスタジオというところで、イベント毎週やってたんだけど、 そこに毎回顔出してたのね。そんで、他のバンドでM r・カイトっていうバンドと親しくって、セッション的に飛入りでやったりとか、ゴジラ・レコ-ドってその頃出してて、3枚目のシングルでソロだしたりとか やってて、ギタリストでたまたまあいているというか、一応力もあってやれるというのがいたんで、とりあえず一緒にやってみよう、ということで。でも、最初 の2、3回はあまり良くなかったよね。で、どうかなっていう感じだったんだけど、1か月位してかな、合いだした。今でもおぼえてるもんね、屋根裏の正月の ライヴの時だったんだけどさ。何かかんじができたっていうか。ライヴだんだんやって、新しいフリクションできたな、みたいな。

-- その頃の状況を鮮明におほえてますか?12年前位ですけど。

地引:うん。あの頃はともかく、ライヴ・ハウス、最初はS-KENスタジオで、7月8月に毎週日曜日に4,5バンドすつ出てイベントやってたのね。その 後、秋からは、関西ツアーがあって、あと、ロフトや屋根裏とか都内のライヴハウスで何バンドずつとかやったりして、翌年になって、あのオムニバス盤の発売 が決まって、結構大きな形でロフトなんかでやるようになって。で、必ず週に1回や2回はあったんだけれども、1度でも顔を出さないとおいていかれちゃう感 じがしたね。もう、一瞬たりとも目が離せないって感じだったよね。その何年か後から考えると、それ以降テレグラフ始めるようになって、十年以上たっちゃう けど、印象に残っている出来事って、最初の三年問が凄い強烈なの。後から思うと、それ以降の3年間、4年間って、比べものになんないくらい最初の3年間、 特に最初の1、2年かなあ。ものすごい面白かったよ。本当にそのわずか3年しかなかったのかなっていう位自分にとっちゃ、集中した時間だった、と。

-- やはり、78年くらいの時期ですか?

地引:うん。


(以下略)

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