2011-05-27

フリクション/19??記事

ストリート・ロック・シーンの奔流 東京ロッカーズ
■地引 雄一氏、掲載誌、時期不明
■(東京ロッカーズおよび以降の音楽シーンに関する記事よりフリクションの部分を掲載)

 フリクションの出現は衝撃だった。メンバーがステージに現われただけでその場の空気が変わった。しかしその彼等の凄さ、カッコ良さというものがどこからくるものか、言葉にするのはむずかしい。それだけフリクションの存在がこれまでの概念から離れたものだったといえる。
フリクションの背景には彼等のニューヨークでの体験が大きな位置を占めている。よく知られている様に、「3分の3」というバンドにいたレックとチコヒゲ は77年に相次いでニューヨークへ渡り、そこで後に『NO NEW YORK』というレコードで脚光を浴びることとなる当時は無名のジェイムス・チャンスやリディア・ランチと共にバンド活動を始め、CBGBなどのライブ・ スポットにも出演した。ニューヨークでのストレートな人間のぶつかり合い、ロックに対するフリーなアプローチとそれを成り立たせる状況などを生で体験し、 強い感化をうけるとともにそこから逆に日本人である自分達、そして自分達の街である東京を強く意識しだしたという。東京でこそ活動すべきだという信念を もって帰国後、さっそくギタリストを加えてフリクションを結成、直ちに東京ロッカーズのムーブメントへと突入し全速力で回転しだしたわけだ。それはリザー ドが東京に棲み続けることによってパワーを蓄積していったのと対極をなすかもしれない。このことがフリクションをこれまでの日本のロックの脈絡から離れた 突出した存在にしていると考えられる。

フリクションの表出しているものが少しずつ明確になっていったのはギターがツネマツマサトシに替った前後あたりからだった。まず彼等はそのサウンドにお いて、また、さらにはその外見においてさえも、一切の情緒的な部分を排除している。一見、それは人間的感情を拒絶した無機的なもののようにも感じられる。 事実そういったとらえ方の評論も多かった。しかし表層の情緒や、あいまいな感情をぬぐい捨てることによって、もっと底にある人間の持つ本質的なエネルギー を解放したのがフリクションなのではないだろうか。

かつてレックは「東京はエネルギーをたくさん吸収しているけど、それを少しも外へ向けて出していないんだよ」と語ったことがある。街にエネルギーが眠っ ている様に、人間の内側にも計り知れないエネルギーが存在するはずだ。しかしそれは様々な条件によってストレートに噴出することを妨げられている。ニュー ヨークでのヴィヴィッドな体験は、余計東京の閉塞的状況を痛感させることになったのかもしれない。何が自然なエネルギーのストレートな表出を妨げているの だろうか。その見えない「何か」との闘いがフリクションの軌跡だったといっても言い過ぎでない。最大限に自己のエネルギーを解放し、メンバー相互にそれを ぶつけ合い、観客に投げつける。もっとナマな生命感を発せられる状況、もっと自立した真の楽しさを作り出せる状況を目ざして、あいまいな見えない壁を突き 崩すために、彼等は演奏はもとより、その服装やポスターのデザイン、ミニコミの発行、またライブの方法やレコードの出し方などあらゆる面にその純化した表 現を貫いてきた。

フリクションが少なからぬインパクトを日本のロック界に、あるいはロックを越えた分野に与えてきたことは確かだし、わずかずつでも状況を変化させてきて いる。しかしバンドの活動領域自体は拡大しても本質的な部分は何ひとつ変っていないのではないかという疑問が常に彼等を捉えている。素直な感性すら知らぬ まに押し潰してしまう様な見えない構造が絶えず世の中を覆っているのではないだろうか。そんな疲労感がチコヒゲを一時的に活動から遠ざけている理由でもあ る。しかしその様な状況の中でも、いやそうであるからこそ、なおフリクションは前進を続ける。

最近レックは「日本人」、「日本民族」ということに強い関心を持っている。結局日本のこの曖昧模糊とした生きずらさは日本人の民族性からくるのではない だろうか。そうだとするとフリクションのやろうとしていることは、長い歴史の中で培われてきた日本的風土そのものとの対決なのかもしれない。例えば明治・ 大正期に西洋的自我の萌芽と日本の伝統的社会との相克が大きな文化的テーマとなった時代があった。今のフリクションがぶつかっている問題はその現代的展開 といえなくもない。だがそれは何も「日本人」に限ったことではないだろう。どんな時代、どんな社会でもその社会を組みたててゆく巨大な力は働き、大部分の 人間はその全体的な流れに従うことによって生きることを保証され、それによって意識までも作られる。その力がより抑圧的かどうかという、程度の差があるだ けだ。フリクションの発する内的エネルギーは、外からの力に従うのではなく肉体と精神の内側から湧き出る力によって自我を成り立たせようとするものだ。フ リクションに最も凝縮したかたちで表わされるこの意識は、東京ロッカーズ以降のバンドが多かれ少なかれ持っているものだ。これがあるいは東京ロッカーズの ムーブメントを形成したバンド群の一番根本的な共通項かもしれない。これは人間の生きる姿勢そのものに対する問いかけだ。フリクションがあれだけ強烈なイ ンパクトを放ち、多くの人をひきつけるのも、そのストイックなまでに純化した激しさがあるからに他ならない。

周囲の状況が困難である程、よりソリッドで、より強靭なビートが必要とされる。フリクションのセカンド・アルバム『スキン・ディープ』は彼等の行きついた深い到達点を示すものだ。その強固な意志を感じさせるビートは僕達に覚醒を促がす。

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