■ (1974年 静岡・仏捨利島)
■ (1974年 京都・サーカス&サーカス)
■ (1974年 01月26日 目黒・杉野講堂)「Electric Pure Land #3」
共演:ロストアラーフ、南正人、エレクトリック・パーカッション・グループ、マリちゃん。コンサートの最後には「暗黒のセッション」。
記事:「ヤングギター」74年4月号 コンサート評。
主催:ブルーチアー・カンパニー。
■ (1974年 04月06日 日比谷小音楽堂)「Free Concert for E.P.L」
ラリーズ、ロストアラーフ、南正人らによるジャムセッション。5月5日に行われるE.P.L#5の前夜祭的なものだった模様。
主催:ブルーチアー・カンパニー。
■ (1974年 04月14日 東京・福生市民会館)「OZ YAA HOUSE」共演:カルメンマキ&OZ、りりぃ。
記事:「新譜ジャーナル」74年7月号に「コン サート白書」という特集記事。元吉祥寺OZの手塚氏のインタビューなど、グラビア5p。OZ YAA HOUSEは1カ月の連続講演で、ラリーズの出演もその一つ。記事では特にラリーズには触れてない。
■ (1974年 04月20日 明治学院大学 100番館)「学徒動員」
(「Electric Pure Land #4」)共演:ロストアラーフ、南正人、紅とかげ。
■ (1974年 05月05日 日比谷野外音楽堂)「Electric Pure Land #5」
共演:ロストアラーフ、南正人、アシッド・セヴン。
コンサートの最後に特別ゲストを迎えてのセッション。
記事:「ヤングギター」74年4月号・・・当日のポスターに関する記事。
主催:ブルーチアー・カンパニー
■ (1974年 07月13日 明治学院大学ヘボン館地下)
●6月頃、山口冨士夫が「ZOON」結成。
メンバーはティナ(Vo)フジオ(G)高沢(B)ビショップ(Ds)
■ (1974年 09月06日 青山タワーホール)
ゲスト:ゴールデン・カップス
■ (1974年 09月15日 六本木俳優座)
エターナル・ウーラム・デリラムのライブでゲスト。
共演:頭脳警察、リトル・ウィングス他。
主催:ブルーチアー・カンパニー
■ (1974年 11月02~03日 多摩美術大学体育館)「多摩美大芸術祭ロック・フェス(オールナイト)」共演:カルメンマキ&OZ、紅とかげ、グレイスほか。
■ (1974年 11月03~04日 神奈川大学大講堂) 「オールナイト・レインボーショウ」
共演:めんたんぴん、久保田麻琴と夕焼け楽団、アシッドセブン・ファミリー、OZバンド他
■ (1975年 04月20日 御殿場・日本山妙法寺)「ミルキーウェイ・キャラバン75・花まつりコンサート」共演:アケト、アシッド・セブン・ファミリー・バンド、久保田麻琴と夕焼け楽団、
CCCCマントラ・バンド、ジュゴン、南正人グループほか。
Side G:石井 勝彦(かっちゃん)
この日の模様は「花まつり」(藤枝静樹監督、16ミリ、約75分 1975)という記録映画に。以下は監督の 藤枝静樹氏談。
1. 約75分の上映時間のうち、ラリーズの演奏場面(「The Last One」)は2、3分。
2. 照明なしで、ステージのストロボだけで撮影しているため、姿はストロボが光った時にちらちらと見えるだけ。
「裸のラリーズと言えば1曲30分以上で延々と続く演奏がすごいが、ここでの収録はごく短い。ラリーズだけを期待すると、飽きてしまうかも」との話。
この映画はプリントが3本あるが、
(1)1本は会場の日本山妙法寺にある仏舎利塔の中(「入れっぱなしのため、とっくに色などが飛んでおり、見れないだろう」)
(2)もう1本はオランダに渡った
(3)残りの1本は藤枝監督自身が持っている
藤枝監督所有分は、日本のコミューン周辺などの要請で数年に1度上映してきたという。
今のところ次の上映予定は決まっていないが、そのうち何らかの形で上映するようだ。
具体的にこのフィルムが現在どこにあるのか藤枝監督自身はっきりしないが、「おそらく自宅のどこかにあるのでは」とのこと。ビデオ化の予定は今のところない。
● ラリーズとスタッフが重なるサイケデリックなステージ制作集団・バンド「アケト」とも活動開始(77年頃まで)。ラリーズのメンバーとなるDRONKO、サミーこと三巻俊郎も一時在籍。
■ (1975年 06月25日 モンド(三ノ輪))
■ (1975年 06月28-29日 神奈川大学大講堂)「オールナイト・レインボーショウNEXT」共演:アケト、南正人、夕焼け楽団、めんたんぴん、アシッドセブン、タージマハール旅行団他。
■ (1975年 08月23-24日 石川県山中温泉水無山スキー場)「第2回夕焼けまつり」共演:南正人、夕焼け楽団、めんたんぴん他。
記事:「ローリングストーンジャパン」75年12月、ラリーズにはほとんど触れていない(石田善彦)。「ニューミュージックマガジン」75年10月号、ラリーズには触れていない。
●山口冨士夫が「リゾート」結成。1976年8月13日に屋根裏に登場、話題集める。
メンバーはフジオ(G)加部(G)コッペ(B)ビショップ(元スーパーヒューマンクルー、Ds)でツインギターだった模様。
■ (1975年 10月01日 渋谷アダン・スタジオ)
■ (1975年 10月05日 ?)wild partyシリーズ
■ (1975年 10月 京都・サーカス&サーカス)
■ (1975年 10月 京都・京都府立文化芸術会館)
■ (1975年 11月03-04日 明治学院大学)「Midnight Gangstar」
●73年頃からドラムスで参加の正田は、ラリーズと平行して久保田麻琴の夕焼け楽団や南正人バンドのメンバーとしても活動した。正田がラリーズに在籍したのは、75年6月の神奈川大のオールナイトレインボーショウまで。引き続き、ラリーズのライブでコンガを叩くなどしてサポート?していた高橋シメ(当時、ロストアラーフ解散前後。通称:オシメ)がドラムスとなったが、短期間でサミー(元バナナフィッシュ)に交代。サミーへの交代は76年始め頃の模様。ベースは、75年の夏頃?長田から元頭脳警察のヒロシに交代。
●76年、ラリーズは阿木譲と組んで海外リリースを目指し、テスト盤(アセテート盤)LPを3~5枚プレス。録音は75年と76年で、収録内容は夕焼け祭りなどのライブ音源をまとめたもの。しかし結局は両者が衝突し、頓挫。アセテート盤に記された表記は「The Naked Larryz」。
その後、リチャード・ブランソンと親交のあった間章の仲立ちで、ヴァージン・レコードからのアルバム・リリースの話が持ち上がる。ヴァージン側の全額負担で実際に国内のスタジオで録音を行ったが、結局は正式契約に至らずリリースされることはなかった。ミックスが完全には終わってないが、その時のテープは今も某所に現存している。
●以下、『蜥蜴の迷宮』(菅原庸介・著)からの引用。
登場人物はBassで加入したばかりのヒロシ、モモヨ、トシ(石塚)の元妻。
・・・(ヒロシは)かたわらのバックをさぐって取り出したカセットをデッキにセットした。
とたんに歪みきったエレキ・ギターの衝撃音が部屋の重苦しい空気を貫き、ノイズまじりの前衛的な
リズム・パターンが私達を襲った。
「なによ、これ?サイケじゃない。カン(CAN)の新作?」
「新しい音だろ?今度入ったバンドだよ。今、スタジオにこもってレコーディング中なんだ」
「あれ?ヒロシ、新しいバンドを結成したんだ。俺、ちっとも知らなかったよ。
バンドの名前は何ていうの?」
「ヒロシ、去年の秋から裸のラリーズでプレイしているのよ」
「そう。これが俺達の音だ。今、あるレコード会社のスタジオで制作中だ。
こう言っちまったら申しわけないが、頭脳警察はロックバンドじゃなかった。
感性がフォークしているんだ。裸のラリーズはロック・バンドだ。史上最悪のバンドさ。
もっとも、最悪ってことに関しちゃ紅蜥蜴という強力なライバルが目の前にひかえているが、
まだ、モモヨ達は若いからな、渋さがない。」
・・・(中略)・・・
「・・・裸のラリーズは年内にアルバムをリリースする。国内と同時にイギリスでも
発売されるんだぜ。レコード会社の名前は言えないが、とにかく、それは決定している。
ロンドン・ツアーの予定すらあるんだ。紅蜥蜴とは格が違うんだ。」
・・・(後略)・・・
実際の記述ではバンド名、固有名詞は架空のものに換えられている(裸のランチ とか)。
■ (1976年 01月17日 法政大学学館ホール)「Wild Trips Part 4」
この当時のマネージメントは、Amon Duul 1 のアルバム・タイトルからとったと思われる
「Dizastar」。
■ (1976年 01月20日 新宿・安田生命ホール)「フリーコンサート」間章プロデュース。
共演:吉沢元治、小杉武久、阿部薫、灰野敬二、高木元輝、豊住芳三郎、近藤等則ほか。
■ (1976年 02月10日 三ノ輪・モンド)
■ (1976年 02月15日 渋谷・屋根裏)
■ (1976年 04月12日 渋谷・屋根裏)
■ (1976年 05月16日 渋谷・屋根裏)
■ (1976年 06月22日 渋谷・屋根裏)
■ (1976年 06月28日 神奈川大学大講堂)「オールナイト・レインボーショウ」
共演:アシッドセブン、夕焼け楽団、タジマハール旅行団ほか。
■ (1976年 07月25日 渋谷・屋根裏)
■ (1976年 07月29日 京都・捨得)
■ (1976年 07月30日 京都・捨得)(二日連続出演)
■ (1976年 08月03-04日 石川県鶴来町獅子吼高原)「第3回夕焼け祭り」
共演:めんたんぴん、夕焼け楽団、上田正樹とサウストゥサウスほか。
記事:「ニューミュージックマガジン」76年10月号 ラリーズは途中で打ち切り、とだけ。
以下、八杉さんに寄せていただいた体験談:
「そのころ私は高校生。当時住んでいた長野市のライブハウスBの店長たちと行きました。15人位で
マイクロバスで行ったのですがメンバーの中にナミさん(南正人さん)が一緒だったような気がします。
(これに関しては記憶が曖昧)
会場の獅子吼高原は冬はスキー場らしくリフトで会場まで上がって行く。一日目は台風のため中止。
急遽、夜はロッジ(リフト乗り場?)でライブが行なわれました。わたしたちは一晩中そこにいましたが
ラリーズの出演はなし。
2日目は晴天。朝から野外の会場でコンサート。昼間リフトの終点近くでぶらぶら遊んでいる時にラリーズ
のメンバー達と連れ(?)の女性達がリフトで上がって来る。真夏だというのに黒の革パンツに同じく黒の
革コート。
コンサートではラリーズはトリだったのですが、前日の台風で中止していた分も含めオセオセでコンサート
を進行していたため、ラリーズの出演はリフトが止まってしまう時間の15分位前でした。ラリーズの演奏の
前に主催者側より「リフトの運転は00分で終了します。」とアナウンスがあったため、会場にいた人たちが
ゾロゾロと移動しはじめた中ラリーズの演奏が始まった。
ものすごい爆音(のような音)エフェクターをかけまくったような音の中を私達も移動をはじめた。下りの
リフトに乗っていると、会場からの音が聞こえてくる。「演奏を中止してください」主催者の声。それを無視
して続けられる演奏。何度かのやりとりの後、電源を切られ演奏が突然止まる。
ヒッピー文化(そんなのあったのか?)終焉期にふさわしい幕切れといえばかっこつけすぎ か?」
■ (1976年 08月07日 大阪・バーボンハウス)
■ (1976年 08月08日 大阪・バーボンハウス)(二日連続出演)
■ (1976年 08月11日 渋谷・屋根裏)
共演:アケト
■ (1976年 09月22日 渋谷・屋根裏)
■ (1976年 10月08日 渋谷・屋根裏)
メンバーが病気のため中止。
■ (1976年 10月16日 日比谷野外音楽堂)「ロッキード・ヘヴィ・コンサート」
共演:リゾート、カルメン・マキ&OZ、外道ほか。
■ (1976年 10月30日 名古屋・金城学園大学新生講堂)「ロックコンサート」
共演:オレンジカウンティブラザーズほか。
■ (1976年 11月15日 渋谷・屋根裏)
■ (1976年 12月17日 立川社会教育会館)「冬至祭~諏訪之瀬島チャリティフェス
ティバル」
共演:アケト、サカキナナオ、ジュゴンほか。
●この当時のメンバーは、水谷(G)、中村タケシ(G)、ヒロシ(B)、サミー(Sir Me)こと三巻俊郎(Dr)の4人。三巻は元「OZ」のスタッフ。
■ (1977年 03月12日 立川社会教育会館)
この日のライブはオフィシャルの『77 Live』(SIXE-0400)に完全収録。
■ (1977年 05月15日 吉祥寺曼陀羅)
メンバーが交通事故のため中止。
■ (1977年 06月25日 八王子光明会館)
主催:ジプシー
■ (1977年 07月22日 お茶の水・日仏会館)
サイド・ギター無しの3人編成。
■ (1977年 08月13-14日 石川県・獅子吼高原スキー場)「第4回夕焼け祭り」
共演:山下洋輔トリオ、泉谷しげる、めんたんぴん、浅川マキ、大駱駝館、夕焼け楽団ほか。
記事:「宝島」・・・77年10月号 ラリーズは明け方のトリだった、など少々。
記事:「ニューミュージックマガジン」77年10月号・・・「サマークロニクル77」という夏のコンサート結果紹介欄で。客は3000人、運営改善、とのこと。ラリーズには特に触れてない。
この時のライブを収めた手塚氏制作のライブテープには、以下のような記述がある。
NAKED OF LARRYZ
LIVE in KANAZAWA 13/8/77
A MUSICAL DOCUMENTARY TAPE
SIDE ONE:
暗殺者の深い夜/眩めく輝き あるひわ自分自身を/寒気/真白い目醒
SIDE TWO:
鏡の向こうで/喜びにふるへ
■ (1977年 08月21日 山梨県・富士緑の休暇村)「Rock Glide Fuji」
共演:久保田麻琴と夕焼け楽団、及川正通&OH! MAN GO!、センチメンタル・シティ・ロマンス、小坂忠、上田正樹、TOSHIBAND、T-BIRDほか。
会場となった富士野外音楽堂のオープニングイベント。
■ (1977年 08月25日 河口湖)「富士ロック・フェスティバル」
共演:ルージュほか。
■ (1977年 12月21日 渋谷・屋根裏)
●記事:「ニューミュージックマガジン」77年12月号・・・「活動はそれほど大っぴらにやらない割には、各地に熱狂的な信者を持つ裸のラリーズの事務所が今度移転した。新しい連絡先はディザスター(電話番号)」
●1978年、吉祥寺・マイナーでの不失者に、水谷がドラムで参加。他にセッションでピアノを弾いたこともあった。
■ (1978年 08月 石川県・獅子吼高原スキー場)「第5回夕焼け祭り」
■ (1978年 11月01日 青山ベルコモンズ・クレイドルサロン)
共演:FRICTION。
ドラムス:野間、ベース:サミー、サイドギターはなし
この時、水谷は共演のFRICTIONのギター、ラピス(この日がフリクションでのラストギグ)をラリーズに誘ったが、ラピスは激怒し、断ったという。
ちなみに水谷とラピスは友人で、何度も一緒にスタジオ入りしてセッションを重ねている。
記事:ニューミュージックマガジン(1978年12月号 p155)にコンサート評。評者は山名昇。当時パンクに「かぶれて」いたらしい評者は、かなりの調子でコキ下ろしている。
「70年後半の時間の流れや都会の風にどんなリズムで戦ってきたんだオイ!」だそうだ(笑)。
■ (1978年 11月11日 渋谷・屋根裏)
水谷はギターを殆ど弾かず、種々のエフェクターを使用したオルガンを演奏。
■ (1978年 12月21日 渋谷・屋根裏)
■ (1979年 01月28日 渋谷・屋根裏)
■ (1979年 02月18日 渋谷・屋根裏)
■ (1979年 02月26日 渋谷・屋根裏)
■ (1979年 03月07日 福生・Chicken Shack)
■ (1979年 03月27日 渋谷・屋根裏)
■ (1979年 04月25日 渋谷・屋根裏)
■ (1979年 06月13日(18日?) 渋谷・屋根裏)
■ (1979年 09月23日 ※シークレット・ギグ
■ (1979年 10月27日 法政大学学館ホール)
主催:上智大ソフィア祭実行委。
■ (1979年 10月28日 渋谷・屋根裏)
■ (1979年 12月04日 渋谷・屋根裏)
● 記事:シティロード増刊号「シティカタログ東京 東京1979」
「ミュージシャンからのメッセージ」欄。しかし、ラリーズの場合、メンバーが書いているわけではない。昔は野外コンサートに出ていたが、 最近は狭い会場や学園祭が多い、など。写真1枚。
●この頃、リリースを前提にコジマ録音にてスタジオ・レコーディング。殆ど一発録りのようだが、エコー処理など、多少手を加えられている。山口富士夫はまだ参加していない。
また、スタジオ・レコーディングはこれ以前・以降にも何度も行われたようだが、いずれも日の目を見ていない。
●また同時期、青木真一(元村八分、当時スピード?後にティアドロップス)は、水谷からラリーズ参加を打診されたが、断ったらしい(「SO WHAT!山口冨士夫」=JICC出版局=)。
0 件のコメント:
コメントを投稿