RECK Interview:当時は客の数なんて全然関係なかった。とにかく自分のものをだしたかった
■ インタビュアー 小野島大氏、 NU SENSATIONS 日本のオルタナティヴ・ロック1978-1998 MUSIC MAGAZINE 増刊 1998年11月10日発行
■(インタビュー記事よりレックの発言を掲載)
■ インタビュアー 小野島大氏、 NU SENSATIONS 日本のオルタナティヴ・ロック1978-1998 MUSIC MAGAZINE 増刊 1998年11月10日発行
■(インタビュー記事よりレックの発言を掲載)
(学生運動の世代?) ちょっと下だけどね。俺がちょうどお茶の水のデザイン学校に通ってたとき、東大の安田講堂篭城があったんだよ。あのころはお茶の水駅周辺はいつも機動隊で 一杯だった。でも俺は全然関心なかった。ノンポリだったからね。ロックンロール好きはあっちの方にはいかないんじゃないかな。だって、楽しくなさそうじゃ ん。 (最初にバンドをやったのは?) 高校のときにはやってたよ、ビートルズ・バンド。考えてみりゃポップ・ミュージックが好きだったんだな、小学生のころから。そういうメロディのあるものを 作りたい気持ちもあるんだけど、できないからさ。俺らぐらいの年代はビートルズってあるからさ。フッと素直になると、そういうのが出てくるんじゃない? マッチャンは正直だから出しちゃうんじゃないかな。でも俺はそれを出す気にはなんないもんな。少なくとも人前ではやらない。 (3/3の結成時期は?) 19歳の終わりになって家出して、デザイン学校で知り合ったヒッピーの人―その人にすごく影響受けたんだけどーのとこに転がりこんだわけ。そのころに 『ミュージック・ライフ』のメンバー募集欄で、ヒゲが募集してたんだよ、ギタリストを。デザイン学校はもうすぐ卒業だし、どうしようかと思ってる時期で、 とりあえず会ったら意気投合して。 (聞いていた音楽は?) ジミヘンと、あとストゥージズ、MC5も聞いてたかなぁ…それっぽいの弾いてたよ。で、オリジナルも作ってたから、まぜて演ってた。『軋轢』に入ってる <サイクル・ダンス>は、<きかいのうた>ってタイトルでそのころ演ってたね。あと<ピストル>もそのころの曲。 村八分は完璧にカッコ良かった。凄かったよ。すげぇ!と思って、唖然と見てた。できかたがちがうっていうか、冨士夫ちゃんやチャー坊がそれまで経験してきたものが、自分と全然ちがうっていうか。 (ハードな生き方ですか?) うん。それに、同じぐらいの年代であっても、俺なんかよりディープに音楽に入ってた気がするな。音そのものにね。それまでの日本のバンドとは全然ちがう匂いがあった。 (75年に自主制作したLPについて) いや、あれ、たしか10枚しかプレスしてない。それぐらいの単位でプレスしてくれたんだよ、当時は。プロモーション用。(状況を打破したいという気持ちか らか?)そういうとカッコ良すぎだね。全然そういう感じじゃなくて、ちょっとは世間に知ってもらいたいってのもあるわけだから、そのためには雑誌に載せて もらうのが手っ取り早いかな、と。いや、自分たちだけでコンサートやったことはほとんどなかったの。イベントばかり。やったとしてもせいぜい客は2~3人 から20人ぐらいだよ。ただ演れるだけで楽しかったから、声がかかればどこへでも行ってたし。 (音楽やろうと決心したのは?) いや、そういう決心っていうのはないんだよ、実は。いまでもそうなんだけどさ、決心したらもっとちゃんとやってるよな。 いや、全然めげないよ。毎日ライブしてたわけじゃないし、そんなに、よし、変えよう、なんて気持ちもないから、がっかりもしないんだよ。 (多くの人に聞いてもらいたいという気持ちは?) うーん、それも、なかったって言ったらウソになる、ぐらいのもんじゃない?バンド内部ではいろいろ意見もだすけど、それ以上のことはそんなに熱心にやって ないよ。そこまで楽しみになんないっていうか。あとメンドくさがりっていうのもあるし。このバンドを人に知らしめるためにこうしようとか、あんまり…まぁ 少しは思ったけど。10枚作ったのは、まぁそういうことなんじゃない? (ニューヨークパンクについて) うん、全然ピンときたよ。だってそのころ、むこうのもんとかも面白いのがない時代だったでしょ。だからすごく刺激的だったよ。セックス・ピストルズが出てきたとき、まずバンド名に驚いたよな。で音を聴きたくなるわけだ。 ピストルズはわりと普通な音だなと思ったんだよ。でもNYの音を聴いたときはアレッと思ったよな。うまくないじゃない?ハード・ロックじゃなかったし。だ けどどっかにきたよね、その面白さが。ハード・ロックみたいに太い音で ゴーッといく部分と、それだけじゃつまんないっていうのがいつもあってさ。そういう部分をNYの音が刺激したわけ だ。どっか神経を刺激するような、テレヴィジョンのトム・ヴァーラインのギターが好きになっちゃった。 (それがNYに行った理由?) うーん。ひとりだったらどうなってたか、わかんないなぁ。割と曖昧な男だから。ガールフレンドが一緒にNY行くってお金貯めだしたからね。まぁここにいるよりそっちの方が面白そうだな、ぐらいのもんだよ。 (S-KENの田中唯士さんにNYにあったんですね) 当時『ロッキンf』って雑誌の編集長が、珍しく3/3の記事を載せてくれてたんだよ。その人が、NYに俺の友達がいるって紹介してくれたわけ。で尋ねていったら連絡してなくて、"あんた誰?"って言われて。 (東京に帰った理由は?) ティーンエイジが英ツアーやることになってさ。でも俺は3ヵ月の観光ヴィザだから、一度出たら戻ってこれない。だからバンドも抜けたんだけど、NYに腰を 落ち着けるつもりもなかったし。じゃあ帰って自分のバンドをやろうと。リディアとか、今までの音楽ってラインから全然外れてたわけでしょ。すごく楽しかっ たけど、やっぱり俺のバンドじゃないし、俺がロックンロールできるわけじゃないからさ。そういう、自分のバンドをやりたいなって気持ちがむくむくと湧いて きたからね。 (NYと日本のミュージシャンの違いは?) といっても俺らが知り合ったリディアとかマーズなんかはミュージシャンって感じが全然なかったからね。実際マーズは絵とか描いてたしさ。全員が描いてたわ けじゃないけど。彼らは表現の手段として、いまは音でやってる方が面白いってことでやってるわけだよ。マーズなんか最初はただのヘタクソとしか思えなかっ たからね。でも聴いてるうちにアレッと思うんだよ。いま目の前でやってる音楽は何なんだろうって。そうすると、俺はそれまで、ただ外国の物真似をやってた だけじゃなかろうかって思うわけだ。NYではヘタでもなんでも、ユニークなら客は見にくるんだ。オリジナルっていうのが一番大切で。いかにほかとちがう か、ってことで競ってたから。新しいもの好きも多いし。イエスとノーがはっきりしてるし。日本だと、相手に合わせることが身についていて、人は人、自分は 自分っていう主張がそれほどないでしょう。その自信のあり方っていうか、そういうものは身に付いたね。音楽ってそういうのが出てくるじゃない?だから音を 出し合うとすごくわかるよ。気を使ってしまうっていうか。しょうがないんだけどね、そういう風に育っているから。ミュージシャン同士でぶつからない音って あるから。むこうでは、とにかく遠慮なしっていうか、前へ前へと強い音を出す人は一杯いるわけで。俺は俺っていうのは誰でもあると思うんだけど、それを はっきり出せるかどうか。それを一回バンドでやってみようって思ったんだよ。サウンドっていうより、出し方、見せ方っていうかさ。まぁフリクションも 3/3とそんなに変ってないけど…俺がベースを弾くようになっちゃったから、そこはちがうんだけど、基本的には速いロックンロールっていう。スピードはよ り速くなったけどね。タラタラしたとこは見せない。尖ってるとこだけ見せる。余計な部分はなくして、とにかく出ていって、バンッ!てぶつけて引っ込む、み たいな。 (3/3よりさらに無駄を削ぎ落としたのですね) そうだね。NYでそれを学んだのかもしれない。だからそのときは音楽がどうのってレベルじゃないよね。自分を見せるときにどういう見せ方をするか。自分のなかの曖昧な部分はずいぶんなくなった気がする。自分にとって何が必要なのかっていう。 (NYでイエス、ノーを問われる場面が多かったんですね) そう。それは言葉ばかりじゃなくて空気としてさ。まわりがずっと白人ばかりで、ある日鏡を見るとひとりだけ黄色人種がいるわけだ。やっぱりちがうんだなっ ていう。それまでは白人になりたかったのかもしれないね。白人のバンド聞いて育ってきたわけだから。でもそこで自分がなんであるか気づかされて、そういう 部分がなくなって。だからNYに行く前とあとじゃ、同じロックンロールやってても全然ちがうんだよ。東京に帰ってカッコいいバンドを作って、人を驚かせた かった。だからすごく楽しみだったし、自信もあったよ。自分がやりたいことがすごく明確にあったからね。早く作って早く演奏したくてしょうがなかった。 (ラピスの加入の理由) そんなに知ってるギターがいなかったのね。ラピスとワクぐらいしか知らなかった。ラピスは一緒にやったことはなかったけど、見た目で客にインパクト与えられるんじゃないかと思ったことは覚えてる。 (ギタリストの腕とかは?) ああ、全然考えてなかったな。いまはサウンド優先だけどね。そのころは、弾ければよかった。いやもう、それでいいと思ってるからさ。とにかく俺、あんなに 自信があったことってないからね、いまだかつて。誰と一緒にやろうが引っ張っていけちゃうぞって自信があったからね。怖いもの何もなかったからね。そうい う状態が何年か続いたからさ。だからあのとき見た人はインパクトあったんじゃないかな。 (田中さんとはNYでよく会っていたのですか?) NYはすごいなぁ、東京はつまんないなぁ、みたいな話はよくしてたね。なんか面白いことやりたいね、みたいな仕掛け人ぽい感じはあったな。で、日本に帰っ たら田中さんはもうバンドを作ってて、もうすぐS-KENスタジオも作るんだ、ってことになってた。NYっていろんなものがあるわけだ。映画も詩も音楽も 絵も。田中さんはS-KENスタジオをそういう、音楽だけじゃない、何をやっても、何を表現してもいい場所にしたかったみたいね。 (最初のライブの動員数は?) 全然覚えてない。大したことなかったと思うよ。だいたい客の数なんて当時は全然関係なかった。一人でも二人でも、とにかく自分のなかにあるものを出したいって状態だったから。 ("東京ロッカーズ"の命名者は?) それは田中さんだよ。始めはコンサートのタイトルだったんだけど。そういう意味で田中さんがいなければ、東京ロッカーズっていうのは出てこなかったと思う よ。彼が言ってみれば仕掛け人だったからね。彼は東京にこだわってたし、東京のストリートでロックやってる連中を集めて、そこから何か面白いことが起きれ ばいいと考えたんだな。ほかの連中はそんなことあんまり考えてないからさ。東京ロッカーズって最初はちょっとダサいかなと思った記憶がある。でもそれでマ スコミにずいぶん載ったんだよ。『GORO』とか『平凡パンチ』とか、音楽雑誌じゃないとこがね、一種の動きとして。それで客が集まったというのはある。 ひとバンドでやるより一緒にやった方が客がくるっていうのは多少あったけど、でもそんなに意識的には考えなかったな。 (ラピス脱退とツネマツ加入の経緯は) くっくっくっ、ラピスはね…俺はそのころはさ、あれやっちゃダメとか、言葉でどうこうは言わなかったんだけど…まぁ俺から見ると遊び人みたいなところあっ たから。こいつ腰が軽いな、じゃクビ、みたいな。いつもそうなんだけど、次の人のこと考えてないんだよ。で、ギタリストどうしようかってことになって。 マッチャンはね、S-KENスタジオに客として来てたの。そのころはマッチャンも突っ張ってたからさ、いいんじゃないかと思って、でヒゲが声かけた。 うん、だってなんも細かくは考えてないもん、当時は。見かけに勢いみたいなもんがあればさ、ちゃんと弾けるかどうかなんてはほとんど考えてない。(一緒に やってみてすごいと思った?)いや全然思わなかった。俺そういう見方は 全然してなかったからね。ヒゲのドラムだってさ、あとでビデオ見て、このときすごいいいなとか思ったぐらいだから。いいプレイしてるとか、そういう表現の 仕方はそのときなかったよねぇ。いまはそういうことがすごい問題なんだけどさ。そのころはパシッ!って音出して、そんとき気分が良ければそれでよしって 思ってたから。じめっとしてなくて、パンッとできる人間がいれば。だからラピスにもマッチャンにも言ってたのは、とにかく真正面を向いて、音を客にぶつけ ることだけ考えようと。うん。それが自分のなかで一番はっきりしようとしてたとこかもしれないな。ちゃんと向き合おう、対面しようみたいな。 (ツネマツ加入で音が引き締まったようだけれど?) うん、それは持ち味だろうね。マッチャンはぐっと一途だからさ。そいで音が硬質になって。だけどマッチャンはブルースが好きだったから、弾いてるとブルースの要素が一杯はいってくるわけよ。だからすごく制約つけたわけ。弾かないでくれって注文を一杯つけて。 (チョーキングするなとか?) そう。このコードのときはここ押さえなくていいとか、この一弦だけでいいとか。こないだマッチャンが言ってたんだけど、そういう制約つけられて反発もあっ たけど、いま考えると新鮮でもあったって。それまでは、こう弾いてくれってばっかり言われてたけど、俺が突然きて、それはするなって。じゃあ納得させたろ うじゃねぇかって気分になったらしいね。 (観客の反応は気になったか?) 最初はどうでも良かった。ただぶつけた手応えがあればいいと思ってたから。あのころ北海道のちいさな港町のライヴ・ハウスに行ったりしたときに、サウン ド・チェック終わって空き時間に海岸とか行ってると、やけになごんちゃってさ。こんな平和なところでフリクションは何をしたらいいのかと思っちゃうわけだ よ。で、戻ってみると客がいなくて、店の人が恐縮して、電話して知り合いの人を呼んでくれるわけ。でもそんな人たち相手に"お前ら!"みたいな感じででき ないじゃない?だからそのときは歌は減らしてセッションぽくやったことがあったな。 最初はパンッ!ってやって帰って、そのあとは知ったこっちゃないわけだ。でも終わったあとライヴ・ハウスの外で一服してるとき若い男の子がすごい嬉しそう な顔して出てくるのを見たりすると、こっちも嬉しくなってくる。ずいぶん遠いところから来る子もいるわけで、最初のころは、"見たいなら来れば"って感じ だったのが、"来てくれたんだ"って気持ちになったりするよね。だから、ある時期からサンキューって気持ちにはなってきた。 けっこうあとになってからだな。IMAバンドに入ってからかもしれないな。ある意味では、そういうとこでは俺も傲慢だったとは思うけどね。だってライヴ終 わったあと"サインしてください"とか来るじゃない?そうすると俺は"どうしてサインが必要なの?"とか聞き返すわけだ。可哀相だろ?いま考えると。そう いうの一杯あんだよ、俺。結構俺ひどい奴だったんだよ。でもそのときはすごくこだわってたからさ。自分と自分の外の世界が、なんとなく一緒になっちゃうの がイヤだったわけだ。 (馴れ合いたくないし、自分が特権的な立場にいるとも思いたくなかったのですね) うん、それは絶対思いたくないな。そんなとこ行っちゃったら最悪だと思ってるからさ。 (バンドと客、メンバー同士の馴れ合いは音に出るかもですね) そう。メンバー同士が馴れ合ってくると、音の場がちーさくなるんだよ。喧嘩しないんだな。そこで収まっちゃって、音の持ってる力がわかってないと、つまん なくなっちゃうよな。日本人特有の、ぶつかってないのにわかりあっちゃってる、みたいなね。ロックだとサウンドにエッジが効いてないと面白くないんだけ ど、そうやってるとエッジが出てこない。 (それだとメンバーは長続きしないのでは?) まぁ、俺の場合飽きっぽいっていうのがあるかもしれないけど。 (有名になりたい、売れたいとという欲はなかったのか?) そうなんだよねぇ。それが自分でも不思議なんだけどさ。たぶんね、ニューヨーク行ったのが27歳だったでしょ。そういう夢の見方がもうできない歳だったっ ていうか。なんか醒めちゃってた。あと、例のヒッピーの先輩に会って、もっと精神的なトリップの方に行ってたからね。まわりの人はインド行ってたりヨガ やったりしてたわけで、有名になるとか売れるとか、そういうことに引っ張られる質じゃなかったんだな。 (傍から見ると、どうしてギター辞めさせるのか、ライブ休むのかと思いました) ああ、そうか。外から見るとね。だけどわかんないけどさ、精神分析的に見るとなんかトラウマがあって、ものごとうまくいきそうになると自らそれを壊す、っていう症状もあるらしいよ。 |
0 件のコメント:
コメントを投稿