2011-05-25

裸のラリーズ 1967~1973

●1967年11月、京都で「裸のラリーズ」結成。
 当時、水谷孝は同志社大学文学部社会学科1回生で、軽音学部に所属。1948年生まれで 愛知県の高校出身。
オリジナル・メンバーは水谷孝(Vo,G)、中村武(G)、若林 盛亮(B)、加藤タカシ(Dr)の4人。若林はその後、70年の「よど号」ハイジャック犯として北朝鮮へ。



●68年、ファースト・ステージ。『67-69 Studio et Live』(SIXE-0101)のジャケット写真はその時のもの。同アルバムの1曲目の「Smokin Cigarette Blues」は2回目のライブでの収録で、オリジナル・裸のラリーズの公での演奏で唯一残っている音源。

●68年頃より、当時京都で唯一存在したアンダーグラウンド劇団・「現代劇場(別名モダンアートソサエティ)」と関る。ここでは単なる劇団の音楽担当というようなものではなく、劇団とラリーズのジョイント公演、数度にわたる劇団のバックアップによる”裸のラリーズ”のコンサートも行われた。
因に、ジョイント公演は数回あったが、ラリーズの暴力的大音量に役者が対抗しきれず解散に至る。
ラリーズがストロボ、ミラーボールなどを多用したライト・ショウを用いるようになったのは、この頃からである。この劇団は解散後も69年末までラリーズをバックアップし続けた。

●ラリーズと共演の劇団・現代劇場について
記事:「京都新聞」1968年5月6日夕刊・5月13日夕刊・8月14日夕刊
1962年結成、京都のアマチュア・アングラ劇団で別名モダンアートソサエティ。 既成演劇・劇場を否定してサイケ、ハプニングを多く採り入れた舞台が特色の模様。
ラリーズとの共演は68~69年。代表の小松辰男は、たぶん「Heibon パンチ DELUXE」8月号掲載写真のラリーズ世話人で、「STUDIO ET LIVE」でスタジオ録音にも協力?
68年ごろの団員は久保田英子、清水達也、中村洋子、氷川健一ら7人。劇団はラリーズの爆音が原因で69年末解散。



■ (1969年 04月12日 京都大学A号館地下)「バリケード・ア・ゴーゴー」
  共演:ムスタング、ワックス、ムスターファほか。
バリケード封鎖中の京大でのイベント。主催:京大新聞等。このライブは客約500人。
記事:「STRUGGLE」(京大全共闘機関誌)69年4月11日号・・・「ハテシナクGO GOパーティ」で、特別出演は「芥正彦一族」「ガリバー一族」。ちなみにバリサイのオープニング行事は「入学式実力粉砕」とのこと。

・・・ 「新風俗遊撃若衆」との京大バリサイ周辺記事。
本文でラリーズに触れてないが、写真1枚(=「日本ロック紀GS編」に再録=転載時に右端のカメラの女=「ツジタカラ」=をカット)。写真説明は「同志社学生会館前でニューロックトリオ「裸のラリーズ」のメンバーと。左端は世話人の小松さん。・ギターを持つ時 ゲバ棒を持つ時 いろいろの時があっていい。プロテストソングなんてつまらない・」。

■ (1969年 04月26日 京都射手座)「免罪符としてのリサイタル」
この日は「立体画廊・射手座」のオープニング・ショーで、同日2ステージ。
  メンバーは 水谷孝、加藤隆史、多田孝司、昆野正紀。
『67-69 Studio et Live』にこの日の「The Last One」が収録。



●京都新聞 69/10/2夕刊7面 現代劇場の記事。射手座での公演。写真あり。客約20人。

●京都新聞 70/1/14夕刊掲載の現代劇場・小松氏のインタビューによると、劇団は解散ではなく、「客がインテリばかり」等のため、70年は劇場公演を行わず地方でのゲリラ公演を目指す、としている。「ラリーズの爆音が原因による劇団の解散」は伝説の一つかも知れない。

■ (1969年 10月18日 京都教育文化センター)「免罪符としてのリサイタルNo.2」
メンバーは 水谷孝、松本務、多田孝司。
構成・演出を水谷孝・小松辰男、映像を宮井陸郎、衣装を皆川魔鬼子が担当。



■ (1969年 秋 京都・池坊会館)
京都版・裸のラリーズの最後のライブ。

●70年 に入ると、水谷一人で活動を続行。友人の牧野タダナカ、軽音仲間の久保田麻琴のバッキングを得て『Mizutani/Les Rallizes Denudes』(SIXE-0203)の6曲目「The Last One」を録音。同年夏には同じ3人で同アルバムの1~5曲目を録音。録音は同志社大学の放送室(一説には京大)で行われたという。
久保田麻琴は水谷と同じ1967年の入学。同じ軽音仲間だが、年齢は水谷が1歳上。
ちなみに久保田は京都生まれで、高校がめんたんぴんの地元・小松、同志社大で文学部英文学科。
ラリーズ(水谷)への参加は73年ごろまで続いた。『Mizutani/Les Rallizes Denudes』収録の「朝の光」(水谷・久保田共作)は久保田のソロアルバム『まちぼうけ』にも収録。

●記事:「モンドミュージック2001」=アスペクト=の久保田麻琴インタビュー・・・
(1)よど号事件後に再会した時、水谷はESPやサンフランシスコ周辺に関する詳細なノートをつくっていた
(2)アコースティクでラリーズをやることとする
(3)夏には同志社大学で久保田のプロデュースによる録音
(4)久保田の参加・サポートは73年ごろまで続いた
(秋頃、水谷は京都から東京へ) ←→(その前後、フジオ、チャー坊は東京から京都へ)

■ (1970年 07月26日 山梨県・富士急ハイランド)「ロック・イン・ハイランド」
共演:フラワートラベリングバンド、モップスほか
記事:「ヤングギター」(73年9月号=藤枝静樹)・・・
(1)メンバーは水谷+フジオのグループのセッション
(2)チャー坊は時々ワンフレーズうたうばかりで、あとはミックばりに踊り続けていた
(3)日本のウッドストックを目指したが客約100人で失敗
記事:「SO WHAT!山口冨士夫」=JICC出版局=・・・
(1)メンバーは水谷、フジオ、チャー坊、青木真一(b)、染谷青(g)、恒田義見(Ds)
=後にハルオフォン~ビブラストーン=、写真あり
(2)演奏はローリングストーンズのカバー(ミッドナイト・ランブラー、ギミー・シェルターなど)
(3)青木真一はこのステージがデビュー
(4)水谷とチャー坊は必ずしも合わなかったようで、この後、「水谷中心のラリーズ」(存続)と「チャー坊中心のラリーズ」(70年末ごろまで→村八分へ)の2つの同名バンドが別に活動。同じイベントに2つのラリーズが出演したことも1度だけあった
記事:「新宿プレイマップ」70年10月=16号=・・・当日の全景・客の様子等の写真。確かに客少ない。

●「ロック・イン・ハイランド」で水谷と共演したフジオらはこの時期、「チャー坊とフジオグループ」として70/6/30、70/9/13にそれぞれ京都・円山野外音楽堂でのロックイベントなどに出演しており、実質的にはpre村八分+水谷だった。

■ (1970年 09月06日 京都・コアヤングタウン1階)
「円山オデッセイ」のプロモーションとして演奏。

■ (1970年 09月13日 京都・円山野外音楽堂)「円山オデッセイ」
共演:スラッシュ、ブラインド・バード、ザ・アタック、フラワー・トラヴェリン・バンド ほか。
ラリーズは11組中9番目の出演。バンドの出演順はくじ引きで決められたという。なお、水谷+冨士夫グループも演奏し、こちらも裸のラリーズと名乗ったため、この日は2つのラリーズが出演した唯一のコンサートとなった。


●「ニューミュージックマガジン」70/8月号で東京・青山の「ロック ガーデンサンラザアル」開店広告にライブ出演予定者としてラリーズがフードブレイン、頭脳警察、ルイズルイス加部グループ、成毛滋グループとともに挙がっている。具体的な出演は不明だが、この広告掲載は水谷が京都から東京に移った時期に近く、東京移住前後の拠点の一つだったかも知れない。

●70年秋、水谷は東京へ活動の場を移し、水谷孝(Vo,G)、長田幹夫(B)、正田俊一郎(Dr)の編成で日比谷野音などでコンサートを行う。




●71年8月発売の、南正人のアルバム『回帰線』に水谷がギターで参加。
水谷と南正人の出会いは1970年夏、渋谷道玄坂で偶然会ったらしい。
記事:「風のように自由に旅するヒッピー人生」=JICC出版局、南正人著=
(1)水谷はいっしょにバンドをやりたがっていた。しかし実際に一度セッションしてみた結果、いっしょにやらない方がよい、となる
(2)しかし以降、友人となる
(3)「回帰線」では全員きめまくって、「果てしない流れに咲く胸一杯の愛」を録音。
記事:「G-MODERN」20号=99年夏号=の南正人インタビューでもこの辺に少し触れている。

■ (1971年 06月09日 渋谷・BYG)
■ (1971年 06月10日 渋谷・BYG)
■ (1971年 06月11日 渋谷・BYG)
■ (1971年 08月8-9日 山梨県精進湖畔)「精進湖ロックシーン」
共演:ロストアラーフ、麻生レミ、モップス、1815R&Rバンド、スピード・グルー&シンキ、頭脳警察、ブルース・クリエイション、村八分、エム、ハプニングス・フォー他

■ (1971年 11月06日 慶応義塾大学)「三田祭前夜祭」
共演:乱魔堂、友部正人、あがた森魚&蜂蜜ぱい、斉藤哲夫、遠藤賢司、はっぴいえんど、豊田ゆうぞう、頭脳警察、吉田拓郎。

●71~72年頃、水谷(G)と灰野敬二(Vo)はロストアラーフの高橋(Dr)と氏名不詳(Bass)を加え、 Blue Cheer のカバーをやるためのユニットを組む。スタジオ入りして「Summer TimeBlues」「Second Time Around」などを演奏したという。
またベースを抜いたメンバーで神奈川大学、西荻ロフトでライブを行い、灰野のボーカルでラリーズの「造花の原野」も演奏した。
このユニットは最終的にベースが決まらなかったたため、自然消滅。


●72年、再び中村がサイド・ギターで参加、『Mizutani/Les Rallizes Denudes』の7曲目の「黒い悲しみのロマンセ otherwise Fallin Love With」はこのメンバーで73年に録音。
(明治学院大学でのライブ録音)
吉祥寺のライブハウス「OZ」(72年6月開店)のマネージャー・手塚実と水谷が出会い、ラリーズは定期的に「OZ」に出演するようになる。それと平行して武蔵野公会堂などで、OZ主催のラリーズ・コンサートなども開かれた。その後、ラリーズは福生、立川に拠点を移す。

ライブハウス「OZ」は後に西荻窪ホビット村の村長もやった川内信也と、SUPER HUMAN CREWの有田武生(後にアケトを結成~現YARZ)が店作りをし、手塚がマネージャーを務めた。ブッキングを担当したのはミュウ(橋本?)。
有田武生は、72年以前にはレック、ヒゲとBlow UP というバンドを組んでおり、それが分裂してSUPER HUMAN CREWと3/3となった。

■ (1972年 02月10日 豊島公会堂)「SURVIVAL72前夜祭」
  共演:頭脳警察、ロストアラーフ、あがた森魚
■ (1972年 08月16日 京大農学部グラウンド)「幻野祭」
共演:阿部薫、南正人、豊田勇造、ウェストロード・ブルースバンド他。
■ (1972年 10月14日 吉祥寺・OZ)
■ (1972年 11月05日 武蔵野美術大学)「ZEROCK」
共演:SUPER HUMAN CREW、イエロー、アナベルリー 他
■ (1972年 12月29日 吉祥寺・OZ)





■ (1973年 ?    WILD PIRTY)
■ (1973年 ?    京都大学西部講堂)

■ (1973年 ?    明治学院大)

■ (1973年 01月05日 武蔵野公会堂)「吉祥寺コンサート」
  共演:都落ちほか
■ (1973年 01月21日 日本青年会館)「2000光年のイルージョン - Maler」
  共演:都落ち、高木元輝トリオ、布谷文男 ほか

■ (1973年 03月04日 武蔵野公会堂)「裸のラリーズコンサート」
ゲスト:南正人


■ (1973年 05月02日 日比谷野外音楽堂)「ロック・スーパー・セッション」 
  共演:Super Human Crew、四人囃子、タジマハール旅行団
■ (1973年 06月17日 吉祥寺・OZ)
■ (1973年 07月03日 池袋グリーンシアター)「Electric Pure Land」

共演:ロストアラーフ
主催:ブルーチアー・カンパニー。

■ (1973年 07月08日 池袋・シアターグリーン)「ホット・ウェーブ・ロック」
  共演:梅雨前線

■ (1973年 07月28日 吉祥寺・OZ)
■ (1973年 08月25~26日 石川県山中町上原新家工業前リンポー園)
 「第一回夕焼けまつり」
共演:めんたんぴん、夕焼け楽団、南正人ほか
記事:「ヤングギター」73年11月号に関連記事(P87)。ラ リーズにはほとんど触れていないが、主催元からのテープ発売の件で名前が出ている。実はこれが最初のオフィシャル?(1本800円)。

「夕焼けまつり」は73年ごろから金沢周辺で5、6回開催されたオールナイトイベント。
記録用ムービーも撮影しており、「夕焼けまつり」を受けた東京・屋根裏での「こやけ祭り」などで上映。ラリーズは73年、75年、76年、77年に出演しているが、どの程度映像があるのかは不明。
■ (1973年 09月02日 吉祥寺OZ)「OZ LAST DAYS(8/29~9/2)」共演:クリエイション、カルメン・マキ&OZ、四人囃子、あんぜんバンド、頭脳警察、
南正人、久保田真琴と夕焼け楽団、アシッド・セヴンほか。9/2の共演は南正人、夕焼け楽団。オフィシャル「Oz Days Live」の第4面に「造花の原野」他4曲収録。
記事:「ヤングギター」73年12月号・・・白黒 グラビア欄の集合写真に水谷がちらりと写っている。また石田善彦による関連記事も(p85)。
記事:「ニューミュージックマガジン」73年10月号・・・OZの手塚実氏による記事。Doroncoらラリーズのメンバーに関する記述あり。Doroncoはコミューン系の「名前のない新聞」の企画・創刊準備人で、OZの機材調整全般もこなしていた。
記事: 「新譜ジャーナル」73年11月号・・・「OZ DAYS LIVE」のレコード評。

● 「OZ DAYS LIVE」は1000セット制作、1セット3000円。全て「OZ LAST DAYS 」以前の音源で、同コンサートでの収録音源は含まれていない。

■ (1973年 09月22日 日比谷野外音楽堂)「Electric Pure Land」
  共演:頭脳警察、カルメン・マキ&OZ、ロスト・アラーフ、タージ・マハール旅行団ほか。
記事:「ヤングギター」73年12月号・・・ラリーズ写真1枚(水谷単独)、コンサートの記事も少々。主催のブルーチアーカンパニー=ラリーズ、ロストアラーフのメンバーにOZ周辺の人々を加えたコンサート企画集団=の高橋氏コメントが中心。
記事:「Music Life」73年11月号

■ (1973年 11月 明治大学理工学部)生田祭オールナイトコンサート
■ (1973年 11月03日 浦和・埼玉大学体育館)「オールナイトエレクトリックショー」
共演:めんたんぴん、カルメンマキ&OZほか
記事:「ヤングギター」74年1月号・・・コンサート評(P33)。 
記事: 「新譜ジャーナル」74年2月号・・・グラビア。 

■ (1973年 12月15日 千葉大学)「不知火」共演:アシッドセブン、カルメンマキ&OZ、ロストアラーフ。
記事:「ローリングストーンジャパン」74年2月号・・・コンサート評。

「ヤングギター」73年11月号(P36)にラ リーズのインタビューが掲載。この記事はその後、「日本ロック紀GS編」(シンコーミュージック)に再録。
● 記事:「ニューミュージックマガジン」73年7月号・・・ 期待のバンドの一つとして紹介(水谷コメント少々)



●吉祥寺「OZ」が73年9月で閉店した後も、スタッフがラリーズをバックアップ。手塚がマネージャーとなり、立川、福生を中心にコンサートの企画などを続けていた。当時のラリーズの連絡先は東京・青山の旧OZの手塚氏のアパート=「裸のラリーズ事務所」。南正人もここが連絡先。
「Electronic Pure Land」はOZの流れを汲むコンサート・シリーズで、ラリーズや灰野敬二
のロストアラーフなどの参加ミュージシャンも、企画の段階から関っていた。

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