2011-05-30

裸のラリーズ:雑誌記事「ヤング・ギター」1973年 9月号

「村八分」ものがたり(藤枝静樹)

1970年7月26日、富士急ハイランドで行われた<ロック・イン・ハイランド>のイベントにバーズ・パーティーとして参加した僕は、京都からやって来た「裸のラリーズ」と名のるとても不思議なバンドに出会った。
この年はウッドストックの映画が公開されたり、ストーンズが来ると言われた富士オデッセイが企画されたりして、ロック・フェスティバルは常にマスコミに 話題をまいていた。この <ロック・イン・ハイランド>もその当時の日本の代表バンドを全て網羅し、スタッフ、機材も最高の部類を集めてかなり前からマスコミの間で騒がれていたに もかかわらず、さて幕を開けてみると、バンド関係、報道関係をのぞくと真の観客は100人位しかおらず、関係者は唖然としていた。日本版ウッドストックと 前評判を聞いてドッと押し掛けた報道陣は、このイベントの不成功はともかくとして取材をしなければならないので、ちょっとした事が起こるといつもカメラマ ンの山ができて、アマチュア写真家の撮影会みたいな雰囲気になっていった。
ちょうど「裸のラリーズ」が出て来て「ギミー・シェルター」を演奏し始めた時、案の定この人だかりができてしまった。よせばいいのにその中の一人がカメ ラを持ってステージに上がっていき写真を撮り始めた。その時である、ステージの隅で踊りを踊っていた不思議な奴がそのカメラマンに向かって激しいケリを入 れた。それに合わすように曲はブレイクして、「ミッドナイト・ランブラー」のブレイクに代り、カメラマンは鼻血を出しながらステージの上から転げ落ちて いった。その事を遠巻きに見ていた僕はスゴイ奴が現れたと思い、走ってステージの真ん前まで行き、その男を見つめた。
近くに寄ってみると、濃いグレーのシャツに擦り切れたようなジーパンをはき、その上から夏だというのに穴の開いたロング・ブーツを履き、八百屋の前掛け をつけて胸まで伸ばした長髪を揺らしながら踊っており、かなり異様に見えた。僕はその男に釘付けにされたように見つめた。そいつはボーカル担当らしいのに 時たまワンフレーズを歌うだけで、後はずっとミック・ジャガーばりの踊りを1時間のステージ中踊り続けていた。これは本格的なロック・バンドになるなと思 い、ステージが終わってから訪ねると「裸のラリーズ」の水谷孝がセッション・メンバーとしてバックに山口冨士夫グループをたのんだという事である。あの 踊っていた奴はと聞くと、チャー坊というサンフランシスコから帰ってきた奴だという。その3ヶ月位前、日比谷の野音で成毛滋のオルガン、つのだひろのドラ ム、石川恵(現、ファー・ラウト)のベース、それに山口冨士夫のギターをバックにデビューして、その
時も歌わないでずっと踊り続けていたという。そしてその踊りの途中で成毛の処へいって、「あんた、いえてへんわ。」と言った話を聞き真にロックの判る奴が現れたなと思った。
その後9月に日比谷の野音に 山口冨士夫グループが出るというので観に行ったが、何かの理由で出なかったので、ガックリして帰ってきたのも覚えている。それから2,3週間たってチャー 坊が鹿沼で大麻不法所持現行犯で捕まったのを週刊誌で読み、僕の予想を越えるミュージシャンが現れたのだと改めて思った。そしてその保釈後、「シャバはえ えで。」と帰ってきたチャー坊は、冨士夫と一緒に「村八分」というツイン・リードギターのバンドを結成した。
それから3年たとうとする今、やっと待望の「村八分」のLPが2枚組ライブで発売された。やっとの事でレコードを買って針を下ろしてみる。あの「村八分」 が出てくる時の外国グループ以上にワクワクくるあの感じを思い出しながら目をつぶって待っていると、何と聞こえてくる拍手の音はパタパタと迫力のない音。 これはやばいなと思い目をひらいて聞いてみる。冨士夫のチューニングの音が聞こえてくる、いつもと違う、こんな音じゃない。ロックを判っていたらこんなレ ベルで録音しないはずなのにと思う。そんな事を考えているうちに1曲目が終わってしまい、音に疑問をいだきながら「村八分」の演奏に聞き入ってしまった。 やはり演奏は裏切らないで迫ってくる。これだけの事を彼らはやっているのだから、もっとましな録音の仕方もあるだろうと悔やまれてならない。今度の2枚組 は、ブートレッグ・レコードと思って「村八分」の男グルーピーは次のLPの発売を待っている。


1970年7月26日 山梨県・富士急ハイランド「ロック・イン・ハイランド」
写真右より、水谷、チャーボー、ツネダ、
冨士夫。青木はアンプの裏
(山口
冨士夫著「So What」JICC出版より 写真:望月彰)

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